關野貞大陸調査
關野貞の国内調査については、すでにこのサイトでも藤井恵介「關野貞の足跡」をご紹介しました。關野貞は、寸暇をおしんで、国内を調査し、我国の文化財保護行政を軌道にのせましたが、明治39年から40年の清国調査、明治40年から41年の清国・韓国調査(東京帝国大学時期)、大正7年の中国調査、そして昭和5年から9年にかけての断続的中国調査(東方文化学院時期)により、中国調査の資料を残しています。
これら調査については、すべてではありませんが、関野貞研究会編『関野貞日記』(中央公論美術出版、2009年)によって、より詳しい情報を得ることができます。当サイトでも、この『関野貞日記』はあちこちで利用いたしました。
また、これらの調査は、常盤大定との共著である『支那文化史跡』(全12冊解説12冊、法蔵館、1939〜1941年)に活用されています。この解説によって、關野貞や常盤大定が調査したころの各地の遺跡や建築の概要がわかります。
ただ、今回のわれわれのプロジェクトを進める過程で、この『支那文化史跡』に使用された写真が、必ずしも彼らが直接撮影したものではないことがわかってきました。また、この「直接撮影」も、われわれが常日ごろ想定するようなものではないこともわかってきました。当時の写真撮影は、原板としてガラス乾板を用いました。写真機自体かなり大がかりになります。また、ガラス乾板を持ち歩くのも人だけというわけにはいかず、馬車を利用したりしています。したがって、「直接撮影」という場合、多くは写真師をともなうものであったようです。われわれが把握したところでは、北京の山本照像館がかなり関わっているようです。
工学系研究科には、『芸術参考写真帖』という全17冊の写真帖(アルバム)が整理されています。このうち13冊が關野貞の整理になるもので、残りが伊東忠太・塚本靖の整理になるものです。これらの関係も、今回ガラス乾板を整理する中でかなり明らかになりました。
その『芸術参考写真帖』には、山本照像館由来の写真が含まれています。人物としては、山本明と岩田秀則が関わっています。
山本明は山本讃七郎の子で、讃七郎が北京で山本照像館を開きました。この山本讃七郎については、日向康三郎「林董伯爵と写真師山本讃七郎ーールーツ調べの余禄としての古い写真の発掘ーー」(『史談いばら』24号、井原史談会、1997年4月)、同「山本讃七郎をめぐってーー続・林董伯爵と写真師山本讃七郎ーー」(『史談いばら』25号、井原史談会、1998年3月)、同「山本讃七郎[Ⅲ]ーー明治の写真師の文書資料ーー」(『史談いばら』29号、井原史談会、2005年4月)が多くの貴重な情報を提供してくれます。山本明の子の山本茂氏より帝国大学時代の關野貞調査に関わるガラス乾板の寄贈を受けていますが、この経緯も、日向氏の文章に書かれています。
日向氏からは、山本讃七郎関係の焼付け写真をご寄贈いただきましたが、この整理にあたっても、またわが研究所所蔵の焼付け写真の保護整理、ガラス乾板の保護整理等についても、東京都写真美術館の金子隆一氏からご助言いただきました。
また、岡倉天心が甥の早崎稉吉を中国に出向かせ撮影させた写真も工学系研究科に寄贈されたようで、これが上記の『芸術参考写真帖』に入っています。これについては、引き続き整理検討を進める予定です。
以下、調査地ごとに、まとめ得たものをご紹介いたします。
關野貞の中国調査は、上述したように明治39年から40年の清国調査、明治40年から41年の清国・韓国調査(東京帝国大学時期)、大正7年の中国調査、そして昭和5年から9年にかけての断続的中国調査(東方文化学院時期)があります。いつの調査か判明するものもあり、そうならないものもあり、また關野自身の調査写真かどうかわからないものも少なくありません。ここでは、混乱をさけて工学系研究科建築学専攻の『芸術参考写真帖』の整理を基礎にまとめておくことにします。
清陵調査
河南登封調査
山東濟南調査
山東曲阜調査
山東鄒縣調査
山東濟寧調査
浙江寧波調査
浙江紹興調査
浙江天台山調査
浙江杭州調査
河北石家庄調査
河北定州調査
河北曲陽調査
陜西西安調査