注釈    本文はこちら →  『新編史記東周年表』から

    威宣王     威王にして宣王
              
    湣宣王     湣王にして宣王
             


 「威宣王」は「威王」にして「宣王」、「湣宣王」は「湣王」にして「宣王」です。したがって、「威王」と言えば「威宣王」のことであり、「湣王」と言えば「湣宣王」のことになります。これは問題ないのですが、「宣王」と言った場合は「威宣王」なのか「湣宣王」なのかがわからない、----これが私が提起した問題です。
 つまり、「威王」の記事は、「威宣王」の記事として問題がない。
 「湣王」の記事も「湣宣王」の記事として問題ない。
 しかし、「宣王」は「威宣王」と「湣宣王」の記事が混在することになります。
 ではどうして『史記』などでは、「威宣王」「湣宣王」の二人を「威王」「宣王」「湣王」の三人にしてしまったのか。
 私はこれについて、称王改元の問題を提起しました。
 威宣王は、王になる前と王になってから、それぞれに在位年をもっています。諸侯としての年代(A)と王としての年代(B)があります。後に両者を合算した年代(C)もできました。
 『史記』は、(C)を威王の年代(これ自体まちがいではありません)、(B)を宣王の年代(これも、それ自体まちがいではありません)として紹介しています。それぞれ独立させて並べたらどうなるか、皆さんもすぐおわかりになるでしょう。
 とんでもない年代のずれをひきおこします。それをもとにもどしていけば、年代矛盾はなくなる。----それが私の提起した方法の一部です。

 『戦国策』は、戦国時代に作られた材料(出土遺物『戦国縱横家書』のようなもの)を、前漢末にまとめなおしたものです。まとめなおすまでに冒頭に説明が付加されています。その付加説明の中に、『史記』六国年表(漢代の学者が作った)から算出したのではない(漢代の学者が自分たちが作った年表から間違って算出したのではない)「宣王」の記事があり、しかもそれは湣宣王のものであることがわかる、そんなものがあることがわかっています。具体的に言えば、蘇秦が斉の宣王に合従を説いた記事です。その記事は、『史記』蘇秦列伝にも引用されていて、「斉の宣王」と記されています(0376画像01738.jpg)。現行『戦国策』(前漢末)ができあがる前(『史記』ができあがった前漢中期)にすでに、問題の記事(威宣王はすでに死去し、湣宣王の時期に入っています)が斉の宣王に関わることを示す材料があったことを示すものです。
 なぜこんなことを述べたのかといいますと、『史記』田世家(田敬仲完世家)に数値として示された「年代」だけからすると、「漢代の学者が威宣王の称王後を誤って独立させ、威王と宣王の二人にしてしまった」と説明できそうだからです。
 私は当初、湣宣王は宣王ではないように説明できないか、いろいろ考えてみたのですが、湣王(湣宣王)時期の記事についてなぜ「宣王」と称するか、系統的に説明できる理由をあれこれ考えて(正しい年代は正しい理由が、そして間違っている年代は間違った過程が、それぞれ系統的に説明されなければなりませんので)、湣王(湣宣王)も宣王であったとした方がいい、という結論に達しました。
 つまり『史記』では、在位年としては、威宣王の称王後の在位年を宣王という独立した王の在位年だと誤り、記事としては、威宣王と湣宣王の記事の一部を、いずれも宣王のものとして記してしまったということになります。

 次をクリックすると、関連画像が見られます。拙著『『史記』二二〇〇年の虚実』(講談社、2000年)から抜粋しました。
  威宣王トップ 
 話題の木星紀年については、木星と太歳の交会と「縮」・「贏」の議論
をご参照ください(学会誌としては、『日本秦漢史学会報』5、2004年に拙稿「王莽時期、木星位置に関する劉歆説の復元とその関連問題」を掲載していただきました。先秦時代や秦漢時代の木星紀年の問題を語る場合、現在の研究者が基礎中の基礎にしている学説<新城新藏説・飯島忠夫説>があります。それを過去の論文でも紹介しましたが、この論文であらためて紹介し、新出のものを含めてどんな材料が問題になるか、それらを網羅した場合、従来の説はどんな問題がおこるか、私はどのように対処したのかをあらためて整理しておきました)。
 この木星紀年説は、『左伝』の時期決定を左右する問題になっています。新城説をとって『左伝』を戦国中期の作とするか、飯島説をとって『左伝』を前漢末の作とするかが論争されました。『左伝』は、戦国時代の書物の年代決定を大きく左右する内容をもっています。
 新城・飯島の御二人は、戦国時代の暦をどう考えるかでも論争しています。私はあちこちで暦の話をしましたが、どうお話ししても、難しいようですね(ある講座でうけた冗談)。
 次の点だけ確認しておけばいいと思います。

  1:従来の戦国時代から前漢武帝期までの暦に関する説では、扱うべき暦日の一部しか議論していない(今後に期待します)。
  2:平勢試案では、すべての材料を配列した。

 2、について、「本当だろうか」とお考えになった方は、『『史記』二二〇〇年の虚実』(講談社、2000年)の冒頭から多少の説明をしておきました。どのように配列したのかは、
   平勢隆郎『中国古代紀年の研究』(東京大学東洋文化研究所、汲古書院、1998年・2003年)に一覧を載せてあります。
 より詳細な一覧は、
  平郎「戦国中期から漢武帝にいたるまでの暦」(『史料批判研究』3、1999年)
  平郎「戦国中期より遡上した暦と『春秋』三伝」(『史料批判研究』4、2000年)
をご覧ください。この『史料批判研究』は汲古書院に連絡をとれば、取り寄せることができます。
 『『史記』二二〇〇年の虚実』(講談社、2000年)は、一般の目には触れにくいかもしれません。一時期話題になりましたので、区立図書館等で入れていただいた向きもあるようです。のぞいてみてください。興味関心のある方は、次をご覧ください。 
 「索引にかえて」と題して、目次と索引の間を目指したまとめをしておきましたので、これをご覧いただくだけでも、概要がわかるかと思います(一般向けですから、専門内容をご紹介するにも限界はあるのですが)。
     → 『『史記』二二〇〇年の虚実』索引に替えて

 興味関心がわきおこった方、ついでに、この本の内容は簡単に説明すれば、こうさ、とご教示ください(専門内容をどう表現したら、わかりやすくなるか、これは良い結果が得られること自体すばらしいことだと思います)。いろいろ書いてありますので、いろいろご紹介くだされば幸いです(一部でもありがたいのですが、一部を聞いただけではわからないこともあるかと思いますし。一部を論じてくださるせっかくのご厚意が、誤解を誘発する結果をもたらす可能性があるとすると、ご厚意の主旨にも反することになりますし)。
 なお、このホームページのトップ(ひらせ ホームページ → 江戸・明・古代プロジェクト)からたどると、次のものもあります。よろしければ、ご参照ください。
        東アジアの亀趺 → 『亀の碑と正統』