これまで公表してきた山本讃七郎写真

  これまで、「山本讃七郎写真」として扱って公表してきた写真群があります。下記のリンクさせた「東洋文化研究所所蔵 東方文化学院東京研究」に含まれています。その後の調査により、少なからざる写真が、息子の山本明の名をもって紹介されるべきものであることがわかりました。

     東洋文化研究所所蔵 東方文化学院東京研究

 そこで、以下に補足説明しておきたいと思います。
  
1: 工学系研究科建築学研究専攻所蔵の『芸術参考写真帖』
  この写真帖は、「關野」(一の上・一の下・二の上・二の下・三の一・三の二・三の三・三の四・三の五、計9冊)・「支那」(十a・十b・十一a・十一b、計4冊)・「天龍山」(1冊)・「奉天等」(計3冊)に分かれています。というものともありますが、ガラス乾板の箱書きにより、「關野」は關野貞であることはもちろんのこと、「天龍山」・「奉天等」も關野貞の整理になることがわかります。
  また、「支那」とあるのが、塚本靖と伊東忠太の整理になることもわかりました。ガラス乾板の箱書きから、「支那」としてまとめられた写真のどれが塚本靖の整理になるか、どれが伊東忠太の整理になるかは、おおよそ判断ができます。
2: 東洋文化研究所蔵旧山本照像館(写真館)ガラス乾板
  山本明の子である山本茂(山本讃七郎の子)により、戦後東洋文化研究所に寄贈されたものです。このガラス乾板のうち、龍門石窟にかかるものは、工学系研究科建築学専攻の『芸術参考写真帳』において、「關野」として整理してあるものと同じです。このガラス乾板には、トリミングがほどこされていますが、そのトリミング部分にも被写体が映っており、工学系研究科のものと被写体・構図が同じであることがわかりました。
  つまり、部分的にということですが、同じ被写体・構図のガラス乾板が、工学系研究科建築学専攻(關野貞整理)と東洋文化研究所(旧山本照像館)に存在するということです。まだ調査中ですが、いずれかが複製ということになります。
3: 人文社会系研究科考古学専攻蔵『龍門石窟』写真帳(「大和園山本明」、「序」と銘打つものなし。大正5・10年撮影。頒布の年は不明)
  上記2を原板とする写真帖であることがわかりました。トリミングと付された「NO」から判断できます。
4: 東洋文化研究所蔵『震旦旧跡図彙』第一集「雲崗石窟」、第二集「北京及其付近」
  同じ焼付け写真により、第一集・第二集として一括の頒布のものと、それぞれ分けて頒布されたものがあります。東文研のものは一括頒布で、分売のものに比較して高級な体裁になっています。後者の分売のものにのみ、伊東忠太の序文(第一集)と山本明の「震旦旧跡図彙の頒布に際して」(第二集)が付してあります。同じく第一集に早稲田大学助教授田辺泰の解説があります(昭和8年頒布開始)
  第一集・第二集いずれも、東洋文化研究所蔵の旧山本照蔵館ガラス乾板を原板とするものです。これらには、伊東忠太の序文、山本明の経緯説明、田辺泰の解説があるわけですが、これらと別に頒布された『龍門石窟』には序文・解説がありません。これには、昭和10年(1925)の關野貞死去が関わるかもしれません。『龍門石窟』にも、本来關野貞の序文が予定されていた可能性があります。

  以上の状況や、他の参照資料により、いわゆる写真「版権」の交錯現象があることがわかります。
  ただし、版権概念がいいかげんなのではなく、つぎに述べておいたようなおおよその決めごとがあることがわかってきています。

   戦前の出版界には、すでに「版権」が存在し、その権利行使がうたわれています。写真帖として販売されたものも、これに準じて扱われています。研究者の立場表明も、この版権をめぐってなされることが少なくありません。竹島卓一『遼金時代の建築と其仏像』(龍文書局、1944年)の自序には、東方文化学院東京研究所の研究員であった関野貞とその助手であった竹島卓一のプロジェクトが、関野の死によって竹島卓一研究員によるプロジェクトとして再スタートをきることになった経緯が語られています。それに関連して中国最古の木造建築である独楽寺発見の経緯が記されているのですが、われわれは、その経緯説明から当時の調査団の有り様と写真撮影の実際をうかがうことができます(關野貞『支那の建築と芸術』にすでに言及されていますが、關野貞の研究を竹島卓一が継承した経緯を知るには竹島序文が必要ですので、こちらで紹介します)。独楽寺の発見は偶然のものであり、本来の目的は清朝陵墓の調査でした。その調査団は東方文化学院研究員の関野貞を長とし、同助手の竹島卓一、北京在住の建築家荒木清三、同写真師岩田秀則によってなされています。この時の調査写真は、東洋文化研究所所蔵の旧東方文化学院(東京研究所)の記録によりますと、竹島卓一の名によって納入されています。ただし、ガラス乾板も含めてすべて東方文化学院に納入され、おそらく竹島の手によって、東方文化学院の『建築写真』という写真帖(アルバム)が作られています。竹島納入の形をとったのは、竹島が調査団の実務を担っていたためと考えられます。
  この写真の版権の扱いですが、竹島卓一と島田正郎が昭和20年ごろに出版準備を終えた『支那文化史蹟』(満蒙篇)が戦後規模縮小して刊行された際の「あとがき」(島田正郎執筆)によって大要を知ることができます。この戦前の出版計画に当たって、關野より責任者の任を託された原田淑人は、あちこちの版権に配慮し、使用の許可をもとめています。規模の縮小により、「昭和初年、両名(竹島・島田)が自ら撮影したものに限定し」たとのことです。その上で、竹島と島田は東洋文化研究所の同意を得て、すでに整理された『建築写真』を再調査し、ガラス乾板と写真を照合しています。
  以上から、「公」の調査の版権はおそらくその「公」に属し、実際はその調査を主宰した「長」の同意を得て版権を行使していたのであり、その長であった関野の研究プロジェクトを継承した竹島にあっても、その版権理解をもって行動していたのだろうと思われます()。
  原田の版権に対する配慮も、島田のあとがきに「東亜考古学会・満日文化協会・日本学術振興会などが主宰した考古学的発掘調査の際の撮影にかかる写真」のことが記されており、これらは、それぞれの学会等、および責任者(調査の長)の同意を得たのだろうと理解できます。
  以上の、学者や学会の通念というべきものとは別に、写真師(今いう写真家)には撮影者としての立場があったようです。工学系研究科所蔵の關野貞責任の写真およびガラス乾板とまったく同じ原板(つまりいずれかが複製)の写真およびガラス乾板が東洋文化研究所に所蔵されています。これは、戦後山本茂によって寄贈されたものであり、山本茂は山本讃七郎の孫に当たります。北京の山本照像館(写真館)にあったこのガラス乾板を使って、山本讃七郎の子の山本明により写真が分売されていたことが、水野靜一・長広俊雄『龍門石窟の研究』(座右宝刊行会、東方文化研究所<東方文化学院京都研究所、現京都大学人文科学研究所東方学研究部>、1941年)の序説に見えています。彼ら写真師は、関野貞等の学術調査に随行する中で、学術写真のノウハウをものにし、次第に独自の写真資料を残すにいたったのでしょう。そして、調査団に参加した際の写真についても、分売する内諾を得ていたものと思われます。つまり、当時の版権主張には、同じ写真と称すべきものについて、いわば版権の共有状況があったようです。決して版権主張がいい加減であったということではないようなので、個々の事情を斟酌していく中で、明らかにできるものは、明らかにしていく必要があると考えます。そうすることによって、一般に活動の実際がわかりにくい写真師たちの学術写真撮影における具体的貢献が、明らかになると思われます。
  その写真師の世界ですが、例えば北京の山本照像館の場合、山本讃七郎の名前が言わばブランドとなっており、その下で活動した(修行していた)写真師たちは、このブランドの下で仕事をしていた由です(東京都写真美術館の金子隆一氏による)。だから、学会をリードして調査した者について、例えば関野貞ブランドを議論するのであれば、独立した写真館の例えば岩田秀則ブランドとの間に、どのような関係が生じるか、という点は、やや微妙な問題を含みそうなので、個々具体的に調査を進める必要がありそうです。
  すでに言及した写真帖『龍門石窟』を大和園山本明写真場の名で頒布しているのも、そしてその原板たるガラス乾板が後に東洋文化研究所に寄贈されたのも、以上のような状況下によるものと理解しておきます。
  すでに述べましたが、昭和10年關野貞の死去の後、どういう動きがでてくるかが鍵を握りそうなので、今後も注意深く調査を進めたいと思います。


  なお、お詫び申し上げておきたいことがあります。過去の整理結果として提供していたデータベースには、画像が反転していたものがありました。現在は、修正してあります。
     画像番号1040P10001〜1040P10016 
  です。不慣れなころ、ガラス乾板を反転して撮影してしまい、研究所建物の耐震補強工事もあって、修正しないままになっていたものです。

  また、「〜か」としたものの中に、調査不足のものがありました。これもお詫びいたします。写真を削除してあります。すでにご利用の方は、それらは、天龍山石窟等のものとして、このサイトの後の方にあらためて紹介しましたので、そちらをご覧ください。