注
竹島卓一のご令嬢である池内節子氏に、お話をうかがうことができました。
それによりますと、独楽寺発見の経緯に言及された東陵・西陵調査、および独楽寺調査については、關野貞生前から出版準備がなされ、東方文化学院に大部の原稿が提出してあったそうです。出版事情があまりよくない中、出版の機会をまっていたとのことです。そして、關野貞死後、その機会がおとずれ、昭和20年に印刷所に原稿がもちこまれた後、東京大空襲があり、印刷所もろとも灰燼に帰してしまったとのことです。竹島卓一は、このことを生涯悔いていて、關野先生に申しわけないと口にしていた由です。
東陵・西陵調査については、実務を担っていた竹島卓一名義で、焼付け写真とガラス乾板が東方文化学院に納められ、東洋文化研究所に継承されています。しかし、独楽寺のガラス乾板は、現在所在が確認されていません。
ちなみに、竹島卓一は、昭和19年、家庭の事情で名古屋に移っており、そこで出版準備を整えていたのが、竹島の代表的研究成果である『営造方式の研究』でした。ところが、その原稿を印刷所に運びこんんだ後、名古屋が空襲にあい、当時の下宿もろとも灰燼に帰してしまったとのことです。いまわれわれが知る『営造方式の研究』は、その後、一から原稿を書き直したものだとのことです。学士院賞恩賜賞をたまわった研究ですが、裏にこんなご苦労があったことは、池内氏からうかがってはじめて了解しました。