山本讃七郎・山本明
山本讃七郎については、①日向康三郎「林董伯爵と写真師山本讃七郎ーールーツ調べの余禄としての古い写真の発掘ーー」(『史談いばら』24号、伊原史談会、1997年)、②日向康三郎「山本讃七郎をめぐってーー続・林董伯爵と写真師山本讃七郎ーー」(『史談いばら』25号、伊原史談会、1998年)、③日向康三郎「山本讃七郎[Ⅲ]ーー明治の写真師の文書資料」(『史談いばら』29号、伊原史談会、2005年)を参照されるとよいと思います。上記執筆時点で、可能な限り集められた情報がつまっています。①を②で、また①②を③で修正した部分もあります。
②によれば、「讃七郎撮影の多量のガラス乾板(一部は明氏撮影と推定)は孫の故、茂氏に受け継がれた。茂氏は乾板の個人所蔵を心配され、多分昭和五四年ごろ、北京日本小学校の友人大木穆彦氏<元朝日新聞社勤務>に相談。氏の紹介で前記の研究所[東洋文化研究所]に寄贈されたのである」(大木穆彦氏に聴取。山本家のメモにより同氏を知る)とのことです。このときに寄贈されたのが、わが東洋文化研究所所蔵のガラス乾板です。ちなみに、この大木穆彦氏は、わが研究所の「大木文庫」の書籍を寄贈された大木幹一氏のご子息です。
①によれば、讃七郎は、清朝末期の中国に渡り、北京の王府井大街に写真館「山本照象館」を開いています。③によれば、渡航したのが明治30年、開業の申請をしたのが明治34年中です。また『北京名勝』の版権登録願いを内務大臣西郷従道に提出したのが明治32年です。②によれば、讃七郎は明治の末年(①によれば明治44年ごろ)に帰国し、また跡をついだ長男明も昭和6、7年ごろに帰国し、それを岩田秀則が引き継いだようです。帰国後の讃七郎は東京市麻布区我善坊町(港区麻布台1丁目)に邸宅を構えています。
①によれば、昭和8年ごろ、山本明が赤坂区青山南町2丁目10番地に「山本写真館」を開いています。そのころ、讃七郎・明父子が撮りためた中国関係の写真を『震旦旧跡図集(彙)』、『支那仏教古美術写真』というタイトルのアルバムにまとめ、書店や大学、東洋美術の研究者などに販売しています。わが東洋文化研究所の記録によると、昭和9年9月11日付にて、山本明より『震旦旧跡図彙』を購入しています。これは、第一集と第二集にわかれ、前者は「北京及びその附近」、後者は「雲崗石窟」になっています。年齢の関係から、後者が山本明撮影であることはわかりますが、前者・後者とも奥付に「撮影兼編集者・山本明」「発行所・山本明写真場」とあります。上記の『北京名勝』の件もあり、また下記の岩田秀則の件もあるので、この「撮影兼編集者」は、「写真館代表者」と理解しておくことにしました。
①によれば、讃七郎は「我善坊町以降は第一線から身を引いたような形になった」とのことです。讃七郎は、昭和14年に東京都武蔵野市吉祥寺に移り、同18年、末子勇宅にて死去。
岩田秀則については、下記にあらためて注記します。