関野貞の足跡

                                                 藤井恵介
はじめに
 
  関野貞は慶応3年12月15日に越後国頚城郡高田にて、高田藩士関野峻節の次男として誕生し(この年は単純に西暦に換算すると1867年である。この日は新暦<太陽暦>では明治元年1月9日となるが、通例では1867年のこととする)、昭和10年7月29日、急性骨髄性白血病のため東京帝国大学付属病院で没した。享年68歳。
  関野は、生涯を通じて、建築史という学を専門としたが、他に日本の彫刻史、絵画史、工芸史、都城史、遺跡、朝鮮の建築史、美術史、古墳学、中国の建築史、彫刻史、陵墓史、さらに石碑の歴史上まで関心が広がっている。この研究領域の広さは、「踏査」すなわち日本全国、朝鮮半島、中国大陸という広大な領域を巡り、無数の「モノ」から興味あるものを選んで研究し、文化財として保存すべき対象を選別するという膨大な作業を、生涯を通じて継続したことと密接な関係を持っている。そして関野は、それぞれの研究、学を創始した有力な人として現代においても確かな位置をしめている。
  ここでは、関野の全生涯にわたる基礎的な情報をとりまとめて紹介しておきたい。

一、 履歴・活動の概要

 明治5年(1872)1月、高田学校入門。同11年5月下等小学校(岡島校)卒業。同13年12月上等小学校卒業
 明治14年(1881)5月、鬼舞校授業生(〜16年7月)
 明治16年(1883)9月、高田中学校入学(19年7月卒業)
 明治20年(1887)1月、英語学校(東京府神田錦町)入学
 明治21年(1888)2月、第一高等中学校入学(25年7月卒業)
 明治25年(1992)7月、帝国大学工科大学造家学科入学
 明治28年(1895)7月、帝国大学工科大学造家学科卒業
   8月、日本銀行新築工事設計嘱託(〜11月)(日本銀行)
 明治29年(1896)1月、東京美術学校嘱託、建築装飾術を講義(東京美術学校)、4月、図案科での建築装飾・用器画報法を講義(〜12月)、7月、古社寺保存計画調査嘱託(〜9月)(内務省)京都府・奈良県へ出張(内務省)、12月、土木工事監督を嘱託(〜翌年4月)(奈良県)古社寺修繕工事監督を嘱託(大和古刹保存会)、古社寺保存委員(奈良県)
 明治30年(1897)2月、古刹修繕調査を依嘱(大和古刹保存会)4月、古社寺保存計画及び修理工事監督を嘱託(奈良県)、6月、奈良県技師(内閣)、古社寺建築物保存調査復命書
   1月(〜翌年4月)新薬師寺本堂修理工事、3月、法起寺三重塔修理工事(〜翌年9月)
 明治31年(1898)2月、奈良県地方教育会委員(奈良県)、4月、奈良県古社寺建造物修繕工事監督(奈良県)、3月、唐招提寺金堂修理工事(〜翌年12月)、10月、薬師寺東塔修理工事(〜翌々年6月)、[出張]京都府・滋賀県・奈良県
 明治32年(1899)2月、名勝旧跡臨時調査委員(奈良県)、6月、奈良県師範学校付属小学校・高等女学校・郡山中学校・同五条分校・畝傍中学校臨時建築委員(奈良県)、8月、秋篠寺本堂修理工事(〜翌年9月)、[出張]大阪府・東京府・三重県・愛知県・京都府・滋賀県(奈良県)
 明治33年(1900)5月、行啓御用掛(奈良県)
   2月、東大寺法華堂修理工事(〜翌年8月)、7月、興福寺五重塔修理工事(〜翌年12月)、10月、室生寺五重塔修理工事(〜翌年9月)
 明治34年(1901)9月、東京帝国大学工科大学助教授(内閣)、建築学第二講座分担(文部省)
 明治35年(1902)4月、造神宮技師を兼任(内閣)、6月、古社寺保存会委員(内閣)、6月、韓国へ出張(内閣)、12月、建築学第二講座分担から第三講座分担へ(文部省)、三重県へ出張(造神宮技師として)(内務省)
 明治36年(1903)3月、内務技師を兼任(宗教局勤務)(内務省)、3月、依願免兼官(内閣)(造神宮技師カ) [出張]京都府・奈良県・兵庫県・島根県・鳥取県・愛知県(内務省)
 明治37年(1904)[出張]福島県(内務省)
 明治38年(1905)6月、建築学第三講座分担を免ず(文部省)
 明治39年(1906)8月、16日清国へ派遣(内閣)(同40年1月11日帰国) [出張]長野県・山梨県(内務省)
 明治40年(1907)2月、東京美術学校図案科授業嘱託(没まで)、6月、清、韓両国へ派遣(9月18日出発、翌41年1月7日帰国)(内閣) [出張]京都府・奈良県・和歌山県・山口県・岡山県・香川県(内務省)
 明治41年(1908)4月、工学博士を授与される(文部省)、8月、古建築物調査に関する事務を嘱託(大韓帝国度支部) [出張]奈良県・栃木県・群馬県・京都府・滋賀県・宮城県・岩手県・茨城県
 明治42年(1909)5月、日英博覧会の美術及歴史に関する出品計画委員(日英博覧会事務局) [出張]山口県・和歌山県・奈良県・滋賀県・愛知県・宮城県・京都府・大阪府・広島県へ出張(内務省)、 9月、16日韓国へ出発、12月23日、帰国
 明治43年(1910)10月、社寺古跡等芸術に関する調査を嘱託(朝鮮総督府) [出張]京都府・愛知県・奈良県・滋賀県・福岡県・広島県・長崎県・栃木県・茨城県・福島県・山形県・青森県(内務省)
 明治44年(1911)8月、史料調査に関する事務を嘱託(朝鮮総督府) [出張]埼玉県・群馬県・長野県・愛知県・三重県・和歌山県(内務省)
 明治45年(1912)8月、古跡調査に関する事務を嘱託(朝鮮総督府) [出張]京都府・奈良県・滋賀県・兵庫県・広島県・福岡県・佐賀県・熊本県(文部省)
 大正2年(1913)6月、文部技師を兼任(宗教局勤務)(内閣) [出張]京都府・大阪府・奈良県・滋賀県・岐阜県・長野県・山口県・福岡県・福島県・京都府・静岡県・岐阜県(文部省)
 大正3年(1914)4月、神社奉祀調査会委員(内閣)、6月、明治神宮造営局評議委員 [出張]宮城県・新潟県・長野県・富山県・石川県・京都府・奈良県・山形県・茨城県・栃木県・愛知県・大阪府・滋賀県・静岡県・千葉県・兵庫県
 大正4年(1915)[出張]奈良県・大阪府・兵庫県・京都府・滋賀県・岡山県・愛知県・朝鮮半島(1ヶ月)・和歌山県
 大正5年(1916)4月、法隆寺壁画保存方法調査委員嘱託(文部省)、4月、古跡調査委員・博物館協議員(朝鮮総督府) [出張]茨城県・千葉県・奈良県・京都府・兵庫県・広島県・山口県・福岡県・和歌山県・山梨県・長野県・宮城県・福島県・新潟県・石川県・福井県・滋賀県・大阪府・三重県・福岡県・朝鮮半島
 大正6年(1917)6月、朝鮮古跡図譜編纂に対して仏国学士院より「スタニスラス・ジュリアン賞」を受ける、9月、明治神宮奉賛会設計及工事委員嘱託(明治神宮奉賛会) [出張]茨城県・栃木県・京都府・奈良県・京都府・福岡県・山口県・香川県・朝鮮半島(1ヶ月半)広島県
 大正7年(1918)2月、外国留学へ出発、朝鮮・中国・インド
 大正8年(1919)留学、インド・イギリス・フランス・スペイン
 大正9年(1920)留学、イタリア・スイス・ドイツ・アメリカ、5月、帰国、11月東京帝国大学教授(兼内務技師・文部技師)建築学第五講座担任、11月、史跡名勝天然記念物調査会臨時委員(内閣)、[出張]朝鮮半島(半月)・京都府・奈良県・愛知県・滋賀県・岡山県・大分県
 大正10年(1921)[出張]岡山県・大分県・滋賀県・京都府・奈良県・愛媛県・兵庫県・朝鮮半島(1ヶ月半)・宮城県・福井県・和歌山県・長野県・鳥取県・栃木県
 大正11年(1922)[出張]奈良県・京都府・山口県・福岡県・長崎県・大分県・富山県・朝鮮半島(1ヶ月半)・千葉県・栃木県・宮城県・新潟県・岡山県・大阪府・岡山県・愛媛県・兵庫県・滋賀県
 大正12年(1923)12月、学術研究会議会員(内閣。15年まで) [出張]京都府・奈良県・和歌山県・岐阜県・香川県・山口県・長野県・朝鮮半島(1ヶ月)・富山県・滋賀県
 大正13年(1924)[出張]京都府・大阪府・鳥取県・滋賀県・奈良県・岐阜県・千葉県・岩手県・山形県・青森県・長野県・朝鮮半島(半月)・滋賀県
 大正14年(1925)[出張]奈良県・岡山県・京都府・朝鮮半島(1ヶ月半)・滋賀県
 大正15年、昭和元年(1926)[出張]愛知県・兵庫県・和歌山県・三重県・奈良県・大阪府・京都府・滋賀県・朝鮮半島(1ヶ月)
 昭和2年(1927)[出張]奈良県・京都府・広島県・兵庫県・滋賀県・富山県・石川県・福井県・兵庫県・奈良県・愛知県・朝鮮半島(1ヶ月半)
 昭和3年(1928)3月、東京帝国大学教授定年退官(文部省)、文部技師退任。古社寺保存計画調査を嘱託(文部省)、6月、東京帝国大学名誉教授(内閣) [出張]滋賀県・京都府・大阪府・和歌山県・三重県・朝鮮半島(1ヶ月)・島根県
 昭和4年(1929)4月、東方文化学院東京研究所評議員・研究員嘱託、8月、国宝保存に関する調査を嘱託(文部省)、11月、国宝保存委員(文部省) [出張]山梨県・奈良県・和歌山県・愛知県・滋賀県・岐阜県・滋賀県・大阪府・兵庫県・石川県・新潟県・秋田県・岩手県・福島県・長野県・朝鮮半島(1ヶ月)・長野県
 昭和5年(1930)7月、帝国美術院付属美術研究所事務を嘱託(文部省) [出張]中国(2ヶ月)・長野県・富山県・石川県・兵庫県・岡山県・広島県・京都府・奈良県・滋賀県・愛知県
 昭和6年(1931)[出張]岩手県・兵庫県・和歌山県・奈良県・朝鮮半島(1ヶ月)中国(2ヶ月半)
 昭和7年(1932)[出張]奈良県・京都府・千葉県・岩手県・岡山県・広島県・福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県・朝鮮半島(半月)・和歌山県・中国(1ヶ月)・朝鮮半島
 昭和8年(1933)4月、重要美術品等調査委員会委員(文部省)、12月、朝鮮総督府宝物古跡名勝天然記念物保存会委員、満日文化協会評議委員(満日文化協会長) [出張]奈良県・大阪府・徳島県・愛知県・京都府・朝鮮半島(1ヶ月)・中国(1ヶ月半)
 昭和9年(1934)法隆寺国宝保存協議会委員(法隆寺国宝保存事業部)、6月、美術研究所嘱託(文部省) [出張]愛知県・三重県・奈良県・和歌山県・高知県・京都府・朝鮮半島(10日余り)・中国
 昭和10年(1935)[出張]愛知県・滋賀県・京都府・奈良県・兵庫県・岡山県・中国
   7月29日、逝去

二、 本務と調査・研究

  以上、関野の主たる履歴を列挙してきたが、本務の内容について少し検討してみよう。
  大学を出た後、辰野金吾(当時帝国大学教授)の下で日本銀行の設計嘱託を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の嘱託となり、建築装飾術の講義を担当するが、内務省の依頼で古社寺保存計画調査嘱託となり、京都府・奈良県へ出張している。伊東忠太の談によれば、古社寺保存が始まったとき、その現場担当の技師が必要となり、「そこで関野君を訪れて話したところ、即座に行きましょうということになり、関野君は勇躍任地に向かわれた」という 。関野は設計活動より、古社寺保存に大きな関心を抱いていたらしい。
  奈良赴任時代の最初の職は、土木工事監督嘱託 ・古社寺修繕工事監督嘱託であった。半年後に成立する予定の古社寺保存法のための準備が目的であった。仕事の内容は、古社寺修繕工事監督嘱託というように、痛んだ古建築の修理の実施であり、同時に特別保護建造物(現在の重要文化財に相当する)の指定の対象を選ぶための調査であった。調査は3月から始めたという。4月からは古社寺保存計画及修繕工事監督が嘱託された。そして6月に知事水野寅次郎あてに「古社寺建築物保存調査復命書」 が提出された。奈良県下の多数の古建築から約80棟を選び出し、年代の特定、五等級の価値付け、三段階の修理の必要度を示したものである。古社寺保存法が成立した6月以降は、奈良県技師として、古社寺の建造物の維持・修理が主務となった。明治34年に奈良を離れるまでに、新薬師寺本堂・法起寺三重塔・唐招提寺金堂・薬師寺東塔・秋篠寺本堂・東大寺法華堂・興福寺五重塔・室生寺五重塔の修理が竣工した。
  また、建造物の調査に並行して、彫刻、工芸、装飾に関しても広く関心を示している 。毛原寺、平城京・宮などの遺跡も精力的に調査・研究を進めている。これらは、本来建造物の年代を決定するための周辺調査であったらしいが、それ自身が新しい研究方法と成果を提案するものであり、後に密度の高い論文として次々と発表される。
  関野は明治34年9月には東京帝国大学工科大学造家学科の助教授に就任する。大学では講義と研究が本務となった。翌35年から1年弱ほど造神宮技師を兼任した。また、この年の6月に古社寺保存会委員となり、明治36年3月からは内務技師(宗教局勤務)を兼任した(いずれも伊東忠太の外遊—明治35年3月から3年間—のための代理であったらしい)。古社寺保存会は古社寺保存法で規定される諮問機関である。内務技師は古社寺保存法を担当する内務省宗教局内の勅任官であり、単に建造物だけではなく、保存行政全般について専門的事項を統括する職であった。大正2年には宗教局は内務省から文部省に移されるが、関野は同じ職を続け、内務技師から文部技師となっている。なお、同局には第一課、第二課があって、古社寺保存の業務を第二課において所掌していたが、大正13年になると古社寺保存課と改称され、昭和3年にはさらに保存課と改称された。関野は兼任の技師の職を明治36年から昭和4年に阪谷良之進が専任の技師となるまで、26年間勤めた。保存課時代の技師は阪谷の後を大岡実が継ぎ、それを補佐する国宝鑑査官として藤懸静也、丸尾彰三郎が勤めた
  大岡実の回顧談によると、関野は昭和10年に逝去するまで、指定については一人で担当し、他の課員に任せなかったという 。指定説明も自ら書いたらしい。外遊中の大正9年の指定以外の800余件の総てを自らの責任で決定していったのである。頻繁に出張を繰り返し、文字通り全国を飛び回っていたのは、指定物件の現地での確認と、古建築の修理指導のためであった。
  東京帝国大学の教官、兼任である内務技師・文部技師の職をこなしながら、明治35年の初回の朝鮮半島建築調査以後、ほぼ毎年のように朝鮮半島・中国大陸への調査を継続した。近代的な文化財に関する法律が施行されていない、調査もほとんどまだ実施されていない地域において、広く迅速に一帯を廻る踏査と、精度の高い古建築・古墳などの実測調査を、繰り返したのである。これらの調査は、朝鮮半島では大韓帝国度支部、朝鮮総督府の依頼、中国では東方文化学院の研究員として、公務あるいは公務あるいは公務に準ずる仕事として実施された。

三、 調査・研究の対象と研究方法
 
  以上で述べたような、日本での本務(公務)と朝鮮半島、中国大陸の調査の進展にしたがって、関野の研究成果が蓄積されていったのであるが、研究対象と研究方法・調査技術について触れておきたい。
  奈良赴任時代の本務は、古来の寺院に残る古建築の修理と調査であった。この時期の関野の調査カード(奈良文化財研究所所蔵)を見ると、内容は、建築以外に、彫刻、工芸、絵画、装飾、遺跡など、広い範囲にわたるものである。関野が奈良で蓄積したこれらの調査事項は、続々と論文として発表される。
   東大寺大仏蓮座(明治31年)、古瓦(同33年〜)、薬師寺金堂・講堂の薬師三尊、秋篠寺東塔跡、毛原寺遺跡、創立当時の東大寺大仏殿と仏像(以上同34年)、東大寺法華堂本尊の宝冠、推古時代の仏像(以上同35年)、法起寺三重塔、薬師寺東塔、唐招提寺金堂と仏像(以上同36年)、法隆寺橘夫人厨子、室生寺五重塔(以上同37年)、法隆寺西院伽藍(同38年)、平城宮及び平城京(同40年)など。
  朝鮮半島調査は、明治35年に東京帝国大学工科大学の命で始まるが、2年後に刊行された報告書『韓国建築調査報告』(東京帝国大学工科大学学術報告第六号)は、大きく新羅時代、高麗時代、朝鮮時代と時代順に章立てがなされ、以下の対象が取り上げられていた。
   都城・城郭(地勢・城壁、羅城、内城、市街及民居、門、邑城、山城)、王宮(門、殿、台、廊、亭、楼)、学校及文廟(郷校、成均館、文廟)、関王廟、書院、寺院(配置、橋、門、仏殿、塔、石燈、石塔)、陵墓(含む副葬品)、住宅(貴族ノ住宅、常民ノ家屋)、自余遺物(瞻星台、石碑、石橋、梵鐘、仏像、瓦、玉笛、陶器、銅器)
  この調査は、工科大学長辰野金吾から「韓国建築ノ史的研究ヲ以テシ且曰ク成ベク広ク観察セヨ浅キヲ妨ゲズ」と命じられていたから、可能な限り対象を広く取った、とも言うことができるが、関野がこの段階で、どのようなものを重要な歴史的建築・遺跡・遺物として捉えていたのか、明確に知ることが出来る。奈良赴任時代に順次発見していった調査・研究対象が、整理されて列挙されていると言うべきであろう。眼に入るあらゆるものを調査対象としていることが伺える。
  明治42年から、統監府度支部、総督府の依頼で、再度古建築調査が開始された。当初は古建築の網羅的調査が目的であったが、徐々に石造物、古墳へと比重が移っていった。関野は明治35年の調査段階で、古代の木造建築が残っていないことを知り、統一新羅以前の文化を知ることができる遺物・遺跡の調査を進めることにしたらしい。この古墳の調査のなかで、楽浪郡治址、高句麗壁画古墳などを発見・発掘し重要な情報をもたらすことになる。朝鮮半島での文化財保存は、大正5年の「古墳及遺物保存規則」の施行から開始されるが、古代を中心とした古跡・石造物が対象であり、高麗・朝鮮時代の木造建築がその対象となるのは、昭和8年の「朝鮮古跡名勝天然記念物保存令」発布以降のことである 。なを、大正5年には総督府からの依頼で諮問機関の古跡調査委員、博物館協議員を兼務した。
  中国大陸へは、明治39年〜40年に始めて渡航、河南省・陝西省の一帯を、また明治40年にも天津・山東の一帯を踏査した。第三回目は大学から歐州への派遣の前段階として、中国・インドを巡ったもので、満州から北京、山西省、蘇州、杭州、寧波を巡り上海からインドへ渡航した。昭和5年からは、東方文化学院東京研究所の研究員として、竹島卓一が同行することが多かったが、研究テーマ「支那歴代帝王陵研究」(〜昭和8年3月)、「遼金時代ノ建築」(昭和8年3月〜昭和10年9月)を掲げ、毎年、1月以上の調査へ赴いた。調査・研究対象は、従来の建築・瓦・彫刻・陵墓に加え、石碑特に亀趺碑(亀の上に石碑を造る東アジア独特なもの)、画像石にまで強い関心をもった。石窟寺院も丹念に歩いているが、天龍山石窟を発見したことも特記される。
  関野は、以上のような多くの種類の対象に対して、一貫した研究方法と記述方法をもっていた。すでに平等院鳳凰堂研究(学生時代の明治28年)の段階から見られた、信頼すべき文献史料を調査すること、時代を前後する他の対象と細部の形を詳細に比較することによって作られた時期の前後を判定する、という方法である。これによって、確かな制作年代を確定もしくは推定することができる。この方法については、別に詳述されるべきだが 、ここでは技術的特質だけに触れておく。
  調査を実施すると、関野は迅速にその成果を纏めて、国内の主要な学会誌に公表した。その調査報告(論文の形式をとるものも多い)は、文章と、写真と、実測図で構成されていた。それぞれが独自の情報を提供し、全体として臨場感の豊かなものに仕上がっており、現地で実見しなくても次の研究に充分利用できるように仕組まれていた。特に発掘調査においては、調査者以外はそれを実見できないから、報告は一次資料に準ずる性格をもつ。関野が開発したこの「報告」の形式は、現在でも踏襲されている普遍的な方法となったのである。
  関野貞は工学分野の建築学出身であったから、図面を描くという専門的教育を受けていた。卒業設計の図面を見るとその熟達した技術を見ることが出来る。平面図、断面図、パースは極めて正確に書くことができた。また、現地でそこにある「モノ」をスケッチする技術も持っていた。写真器が発達して機動力を持つようになる以前、関野貞は明治27年の酒田地震の時、同級生ら学科学生9名と現地に同行して被害状況を記録している 。関野が自身で写真撮影技術を習得しようとしたのは奈良赴任時代である。奈良の古建築修理では写真師に撮影を任せたのだが,明治35年以降の外地調査においては、自身の写真技術が絶大な威力を発揮することになった。
  また、現地の「モノ」に接したとき、模型、模写の作成も同時に試みた。明治30年代後半から作成された法隆寺中門・平等院鳳凰堂・東大寺法華堂倒蓮華などの模型、鳳凰堂・法隆寺・室生寺の建築・仏像・工芸・高句麗古墳壁画の模写群は、遠隔地の「モノ」を手許に置いて研究するため、必須の資料として作成されたものなのである。
  この結果、『朝鮮古跡図譜』(全15冊)、『支那文化史跡』(全12冊)以下、約70点の書籍、約400点の論文が刊行された。主たる論文は著作集『日本の建築と芸術』上(岩波書店、1940、改版1999)、『日本の建築と芸術』下(同、1999)、『朝鮮の建築と芸術』(同、1941、改版2005)、『支那の建築と芸術』(同、1938)に収録されている。

  (原載:藤井恵介・早乙女雅博・角田真弓・西秋良宏編『関野貞アジア踏査』、東京大学綜合研究博物館、2005年。再録に当たり適宜表現を改めた)


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