關野貞ブランドの写真
この件については、竹島卓一のご息女である池内節子氏から貴重な情報を得ることができました。
概略を述べておきます。
竹島卓一は、關野貞の死後、東方文化学院においてその研究を継承し、調査を継続しました。ところが、家庭の事情があり、1942年に国立名古屋工業学校(戦後名古屋工業大学)教授に移り、終戦を迎えています。關野貞が昭和10年(1935)に他界した時点で、すでに清朝西陵・東陵調査の報告書作りはかなりすすんんでおり、熱河調査の報告書『熱河』が1934年(座右宝刊行会)に出版された後、清朝西陵・東陵調査は出版をまつ形で東方文化学院にあずけられたそうです。そして、東京帝国大学工科大学建築学の藤島亥次郎らの助力もあって、昭和20年(1945)に出版にこぎつけました。ところが、おりあしく同年3月の東京大空襲に遭い、印刷所もろとも貴重な研究資料は灰燼に帰したとのことです。
また、竹島自身の研究も、名古屋にあって、同じく藤島亥次郎らのあっせんにより出版にこぎつけたとのことです。ところが、これも昭和20年3月の名古屋大空襲により、印刷所もろとも貴重な研究資料は灰燼に帰したそうです。
竹島自身の研究は、その後あらためて一からまとめなおされ、昭和25年に学位論文「営造方式の研究」として博士号を受けています。それはまた昭和45年(1970)、『営造方式の研究』(中央公論美術出版、1970〜72年)として学士院賞を受賞しています。ところが、清朝西陵・東陵調査については、調査記録とりわけ測量図等が失われたため、出版を断念したとのことです。
ここにご紹介する東陵・西陵調査の写真が世に知られていない理由がここにあるようです。