調査記録

  この「調査記録」が竹島卓一・島田正郎によるものであることが、1976年、法蔵館の『中国文化史跡』増補冊の島田正郎「あとがき」からわかります。『中国文化史跡』は、『支那文化史跡』12巻(1039〜1041年)を再刊し、これに上記の増補を加えたものですが、増補冊が1948年ごろから企図され、1045年3月の東京大空襲により宝蔵館東京支社がその厄にあって計画が頓挫し、戦後もしばらく出版不能になったこと等が、その「あとがき」にまとめられています。そもそも關野貞が企画し、原田淑人に委嘱し、当時東方文化学院研究員であった竹島卓一・島田正郎に託して準備されたこと、東方文化学院の疎開により長野県小県郡神科村金剛寺に移された後、島田がたびたびの転居にあっても原板を保管しつづけ散逸させなかったこと、1976年出版時点では、1948年出版の準備がととのった当初の規模がかなり縮小されたこと、増補には、竹島卓一・島田正郎の「両名が自ら撮影したものに限定」したことが書かれています。その「あとがき」に、規模縮小の前後の状況について、こうあります。
   ・(縮小前)原田先生は、この構想を全面的に支持されたばかりでなく、進んで版権の他に属するものについて、その使用の允許を求める途を講じられた。
   ・(縮小前)実際の作業は、昭和18年ごろから始められた。このころになると、竹島は応召し、さらに名古屋高等工業専門学校教授に転じていたから、島田が嘱を受けて建築・遺構両篇の図版の選定に当った。幸い東方文化学院には、常盤・關野貞両博士の撮影にかかるものはもちろん、鳥居龍三博士らの撮影にかかる写真も蔵されていたから、これらを精査し、加えて東亜考古学会・満日文化協会・日本学術振興会などが主催した考古学的発掘調査のさいの撮影による写真も精査し、両篇の図版候補として凡そ500件ばかりを選定し、法蔵館から所要経費の支出のもとに、東方文化学院写真室の伊藤隆一氏を煩わして、それらの複写と、図版作成のための原板作成をとげるとともに、図版原稿とするため二葉ずつを厚紙に添付し、その目録原稿も作成した。〜〜
   ・(縮小後)本書をなすに当って、東方文化学院の遺産を継承される東京大学東洋文化研究所が、旧東方文化学院所蔵にかかる原板・写真ファイルの多くを搬出して照合・使用することを許諾されたこと、またこの間の手続き等についてはさきに同所長であった窪徳忠先生のご高配を得たこと、更には編集作業には、松川氏(昭和17年当時法蔵館東京支社スタッフ)が協力せられたことに、心から感謝するとともに、法蔵館主並びに社長の出版人としての厚い信義に、重ねて深甚の謝意を表する。〜〜
  以上のうち、「幸い東方文化学院には、常盤・關野貞両博士の撮影にかかるものはもちろん、鳥居龍三博士らの撮影にかかる写真も蔵されていた」というのは、おそらく東方文化学院の記録として残るもののうち、竹島卓一より購入の写真・乾板等や鳥居龍三より購入の写真を指すものと思われます。ここに、当時の「版権」のもつ意味や、別に論じておいた「關野貞ブランド」の実際をうかがうことができます。ただし、『支那文化史跡』の写真と東文研所蔵のガラス乾板や写真を比較すると、常盤にかかる写真は、別所に所蔵されている可能性が大です。
  『中国文化史跡』増補冊は、「満蒙篇」と称すべきものであることが書かれれており、ここにご紹介する清朝の東陵・西陵調査に直接関わるものではありません。また、東文研所蔵の旧東方文化学院ガラス乾板写真には、『中国文化史跡』増補冊で、「竹島・島田両名の撮影」になるものとされたものが含まれており、出版に当たり、自分たちが実際に撮影したもの(現在いうところの、つまりブランドということでない)を選んだことがわかります。これらの「竹島・島田撮影」とされた写真と、ここにご紹介する昭和6年調査の關野貞ブランド写真は、分けておきたいと思います。