竹島卓一『遼金時代の建築と其の仏像』(龍文書局、1944年)自序
竹島の自序には、こうあります(同じ趣旨の記述は、關野貞『支那の建築と芸術』<岩波書店、1938年>の「薊県独楽寺」にもありますが、竹島が關野のプロジェクトをどう引き継いだかを説明する必要もありますので、下記には、竹島著書の方を引用しておきます)。
「今は既に遠い思ひ出となつて了つたが、昭和六年五月二十五日、余は關野研究員に随つて当時北京在住の建築家故荒木清三氏の東道にて、写真師岩田秀則氏と共に自動車を駆つて清朝の東陵の調査に向つた。其途中薊県城内を通過する際、図らずも路傍に聳立する異常なる古建築の存することを認め、一行は直ちに車を停めて之を縦覧した。見れば独楽寺と称する廃寺にして学校に利用されて居つたが、其山門及び本殿たる観音閣の二棟は共に我が宇治の平等院鳳凰堂を見るが如き極めて雄大なる木割を備へ、繊弱なる明清の建築とは凡そ懸絶した様式のものであつた。關野研究員は一見直ちに其遼代の遺構たるべきを断言せられたのは蓋し卓見として敬服措く能はざる所である。余等は直ちに其徹底的調査を欲したのであるが、路程の都合上永く其地に時間を費やすことを得ざりしため、已むなく帰途を期して東陵の調査に向つた。然るに東陵に於て携行の乾板を使い果し、帰途再び独楽寺に立寄りたるも充分の撮影をなすことを得ざる状態にありしため、更に再挙を期し、僅かに数枚の写真を撮り、概略の平面を実測したるのみにて怱々北京に引上げ、而も結局日程に追はれて遂に再挙を企てる余裕を失つて了つた。此ことは今猶甚だ遺憾に感じてゐる所である。」
この竹島の自序の前には、「謹みて本書を關野先生の御霊前に捧ぐ 著者」という扉がついています。そして、上記にもあるように、關野貞に対し「關野研究員」という表現を使っています。なぜ「關野先生」ではないのか。これは、自序の上記部分のさらに先の方にこうあることが関わっています。「余は(東方文化)学院の創立以来關野貞研究員の助手として終始其研究を援け、調査旅行にも常に随つて調査の一部を担当して居つた関係上、關野研究員の急逝によつて未完に終つた支那満州方面に関係ある調査研究の事項は、挙げて余の双肩に掛つて来ることとなつた。初め同年十月より余は新たなる研究に従事すべく予定して居つたのであるが、此突然の事件(關野貞の死去)のため其計画は変更の已むなきに至り、学院評議員会の議を経て余の題目は『遼金以後の建築の研究』と命ぜられた。」 そして關野貞が進めるはずであった研究を継続し、すでに図版のみ刊行されていた『熱河』の解説を完成させたことを述べて、「それは關野研究員によつて完成せらるべく予定されて居つた昭和十年九月三十日を既に一年有半経過した後であつた。」と述べています。
「研究員」という表現にこだわったのは、關野貞が東京帝国大学退官後に東方文化学院の研究員であったからであり、竹島はその助手だったからであり、その死去を受けてみずからが研究員として關野貞がすすめようとしていたテーマを自らのテーマとするにいたったためのようです。他の諸先生がたについては「某博士」という言い方を使い、「研究員」を使うのは關野貞だけになっています。
その上で、上記のように、自序の前に「謹みて本書を關野先生の御霊前に捧ぐ 著者」と述べて、關野が特別であったことを形にしたようです。
關野貞の死去をもって、關野貞ブランドは、竹島卓一ブランドになったということになります。