工学系研究科
建築学専攻
『芸術参考写真帖』
「天龍山石窟」     アルバムにもともと貼ってあった写真が3点欠けている。


  「山中」とあるのは、山中定次郎『天龍山石佛集』(關野貞序・山中定次郎自序、出版地等不明、1928年)に石佛写真のあるものです(番号は写真番号)。この關野の序により、この石窟が破壊される(石窟内外の幾百の佛頭が烏有に帰した)前の写真を山中が「無慮数十百枚」(ママ)撮影したことがわかります。『關野貞日記』によると、昭和3(1928)年12月4日に「朝、天龍山仏頭ニ関シ服部博士ヲ訪フ」とあります。
  『天龍山石佛集』出版当時の状況をご紹介しておくと、山中が失われた佛頭を買い求め、四十余を数えたことも記されています(同書には、計42体の仏頭と2体の仏手、1体の仏足が収められています))。また、山中自序は、「昭和元年(大正15年、1925年)十月に山中として第二回目の調査をした折は、佛たちの多くはまだ第一回目のままであった中に、仏頭が掻き落とされたものがいく体もあった」と述べています(山中の同書の「天龍山の記」によれば、第一回は大正13年6月)。また、その後「ある仏の首を東で求め、ある仏の首を西で発見し、随分かけ離れた土地で、忘れんとして忘れ得ぬ、その馴染み深い石仏の首を発見した」と述べています。
  下記の写真を見ると、すでに「破壊」されたものがあります。
  上記の山中写真と下記の写真との関係は不明です。しかし、同じ乾板を使ったと思しき焼付写真がわが東洋文化研究所に残されています。昭和9年9月11日付で山本明より購入した岩田秀則の写真です。構図もNOも同じで、「H Iwata Peking」 の注記があります。別に示しましたので、比較してみてください。
  


   
                                山中11

   
                        山中21

   


   


   


   


   


   


   


   


   


   
                山中31    山中13

   
                       山中12

   
                                 山中11