春秋時代以来の本来の年代
漢字は、殷王朝のもとで使われていたことがわかっています。殷王朝を前期・中期・後期と分けた場合の後期の遺跡から漢字が見つかっています。甲骨文です。これ以外に、殷王朝では、青銅器に漢字を鋳込む(まるで彫り込んだように鋳造する)技術を発明しました。
周王朝が殷王朝を滅ぼすと漢字を継承しました。甲骨文には関心がうすかったらしく、一部の事例が発見されているだけです。これに対し、青銅器に漢字を鋳込む方は熱心に継承しました。その漢字銘文入りの青銅器を、配下の諸侯に分与しています。
青銅器に銘文を鋳込む技術は周が独占していましたが、西周時代の終わりに外族の侵入などの混乱があり、その技術が各地に流出しました。すでに漢字になれてきていた諸侯は、すぐにこの技術を自分たちのものにしました。漢字世界は広がったのです。
漢字世界が広がると、太古以来行われてきた盟誓(ちかい)の儀式に漢字が導入されます。盟誓の結果を漢字で表現して確認するようになりました。このころには、自分たちの君主の年代が他の国のものと違うことにも関心があつまり、年代つきの記事が残されるようになります。年代記の始まりです。
周王朝の諸侯は、渭水の流域(西周王朝の本拠地)、黄河中流域(春秋時代の周王朝の本拠地、西周時代には副都を置いておさめていた)、黄河下流域(山東を含む。斉や魯があった)に分布していました。これらの外の世界、長江中流域の楚や、長江下流域の呉・越などの大国は、周王朝の諸侯を滅ぼしていく中で、漢字を青銅器に鋳込む技術を手に入れ、漢字世界に参入してきました。
春秋時代の前6世紀ごろから、鉄器が普及し始めます。土木工事が進むようになり、人口も増えて、社会は大きく変わりました。
諸侯は滅ぼされて県となり、各地の大国が中央となって、官僚による領域統治が始まります。中央と県は文書で結ばれ、この行政機構を支える律令も整備されていきます。
前4世紀半ば以後には、各領域国家ごとに史書が編纂されました。年代記や、新興層の物語りである説話が材料となりました。
以上のような経緯があるため、『史記』には、西周時代までの年代はほとんど残されていません。例外は、殷が周を滅ぼしたという象徴的事件にまつわるものなどです。これに対して、春秋時代になると、各国の年代記事が残されました。それらが戦乱や始皇帝の焚書などの混乱を経て断片的な材料になり、『史記』に採用されています。
司馬遷たちは、全天下から情報を集めたわけですから、春秋時代の各国の年代情報があるのに、西周時代のそれがない、というのは、じつに奇妙なわけです。古いから少ないということは言えても、まずなきに等しいという結果を古さと関連づけるのは無理があります。しかし、そもそもないのだ、と考えれば、それは納得がいくものとなります。
戦国時代には、春秋時代についての整理が各国でなされました。『春秋』や『左伝』などが出現します。これらの整理では、春秋時代には本来なかった年代が使われました。これらが編纂されたのは戦国時代なのに、春秋時代にできあがったように説明したのです。なぜかというと、戦国時代になって権力の座についた各国の王たちが、自分たちの制度は歴史的に意味があると主張したためです。その制度のひとつが「君主の元年をいつから始めるか」の方法でした。これを称元法といいます。「前君主が死去したらすみやかに即位して称元する」のが通例でしたが、戦国時代になると、「前君主が死去しても、年内は死去した君主の年代としておき、即位した新君主は賢人たちの保護養育を受けて本当に徳がそなわっているかどうかを判断する」という説明が始まります。これは、君主になるには徳が必要だ、という考えと、実際には血縁によって君主は即位する、という現実をうまく折衷したものです。賢人たちの保護監督の下、新君主には例外なく徳があるとのおすみつきが得られ、年を越しての元旦に、新君主はめでたく元年を始めます。
「前君主が死去したらすみやかに即位して称元する」方法を立年称元法(立とは即位の意味)といい、「前君主が死去した翌年元旦に称元する」方法を踰年称元法(踰年とは年を越す意味)といいます。
『史記』の中には、この戦国時代に作り出された踰年称元法による記事と本来の立年称元法による記事を混乱させたまま整理してできあがった年代矛盾がたくさんあります。
それらも、整理の過程を丹念に復元することで、矛盾ができあがった過程がわかるようになります。