従来、どういう方法で年代を計算していたかと言いますと、基準は『史記』にまとめられていた年表でした。
 春秋時代は十二諸侯年表、戦国時代は六国年表です。
 十二諸侯年表は、『春秋』をもとに作りだされ、六国年表は別の原理によって作りだされました。
 それぞれ間違った原理によって作られた結果、同じ記事について複数の年代が得られる結果を招きました。十二諸侯年表・六国年表いずれも国ごとに君主の年代が得られますから、各国ごとの年代記事(本紀・世家・列傳)をそれぞれの国ごとの君主の年代として決めることができます。すると、おびただしい年代矛盾が出てきてしまったわけです。
 ここに「従来(は)紀元前何年(が得られていたか)」ということで示したのが、その具体例です。具体的に、どの本紀・世家・列傳の年代を使ってどういう年代が得られていたかを一覧にしてあります。

 秦の始皇帝による天下統一までの記事について、年代が議論できる部分が約2900か所ありますが、そのうち約830か所について年代矛盾があります。これまで多数にのぼるということになると、ほんの小手先の説明で、いくつかを扱った程度では、説明したことになりません。
 一つの原理で、何十何百という矛盾がいっきに解消される、という結果が必要です。
 私案では、こうした結果が得られた条件をいくつか駆使して年代矛盾を整理し、矛盾を解消しました。
 もっとも有意性があるのが、称元法(君主がいつから元年を称するかの方法)です。これで年代矛盾解消の道筋が得られます。古来の方法は、立年(前君主が死去して即位した年)に元年を称する(称元する)立年称元法でした。これに対して作りだされた新しい方法が立年の翌年になって(前君主死去の年の翌年になって、年を越して)元年を称する踰年称元法(踰年とは年を越すこと)です。前343年に魏王が踰年称元法をはじめようとして、各国連合軍につぶされ、前338年に斉王がこの方法を始めました。以後、各国があいついで踰年称元法を採用します。
 以上の経緯がわからぬまま、漢代の学者たちは、太古以来踰年称元法が使われていたという誤った判断により、整理を断行してしまいました。そのため、とんでもない矛盾があちこちにでき、それをなんとかしようとして、さらなる誤りを引き起こしてしまったのです。
 それらも有意性のある(多数の矛盾がいっきに解消される)条件を設定することで、解消されました。
 私の整理が、完全だとも思えませんから、皆さんも一緒にお考えください。多数の矛盾がいっきに解消される条件をつかった対案を期待しています。
 なお、十二諸侯年表や六国年表、あるいは従来の補正年表をそのまま(有意性ある条件を論じないまま)使うということになりますと、膨大な年代矛盾に背を向けることになります。

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