注:關野の日記(関野貞研究会編『関野貞日記』中央公論美術出版、2009年)によれば、大正7年に龍門を調査する前、同年3月17日から31日まで北京に滞在し、日本・中国の各人士と交流しているのですが、具体的氏名として山本明等の名はありません。この時点で、なお山本の写真に強い興味を示すにはいたっていなかった可能性があります。
 同日記を見ていきますと、同年6月7日から14日まで龍門を調査した後、17日から24日まで登封の少林寺等を調査しています。その24日の日記の最後に「憾ムラクハ写真原板今ハ一枚モ遺サス」と述べたりしていますから、十分な写真撮影がかなわず、後に山本の写真利用をすることになったかもしれません。