『龍門石窟』

  これについて、補足しておきます。
  關野貞が死去したのは昭和10年(1925)ですが、この『龍門石窟』は制作頒布された年代が不明です。ただ、下記に言及しますが、水野清一・長廣敏雄『龍門石窟の研究』(東方文化研究所、1941年)に山本明『龍門石窟』に言及するところがあり、注釈として「山本氏の写真は昭和十三年『龍門石窟』と題する焼付写真集として刊行された」とありますので、この昭和13年が刊行年だと思われます。
  同じころ頒布された写真帳に、『震旦旧跡図彙』があり、第一冊は雲崗石窟、第二冊は北京及び附近になっており(東洋文化研究所に残る東方文化学院の記録では、昭和9年に購入しています)、それぞれ分売もされています。東文研所蔵本には、山本明の簡単な挨拶以外、序文らしきものはついていないのですが、分売されたものには、それぞれ伊藤忠太の序文と山本明の「震旦旧跡図彙の頒布について」が付いています。
  その山本明の文章によりますと、「不肖私は多年北京に住み、写真の撮影に従事した関係から、大正八年以降相当の犠牲を払って多くの旧跡を撮影したのでありますが、従来は北京を訪ふ僅かの人に頒つたのみであります。それで此度帰朝するに当つては、之れ等原板一千余種を携えて帰りましたので、諸先生の御賛同を得て茲にその頒布を行ふ次第であります。」とあります。この「諸先生の御賛同を得て」というところに、關野貞や伊藤忠太等研究者と山本明との関係が示されているようです。大正8年(1919)は、關野貞が龍門等を調査した大正7年(明治39年にも龍門等調査<〜翌年まで>)の翌年です。山本の『龍門石窟』の写真は、山本は大正5年・10年の撮影だと述べています。大正5年は、当然大正8年より前ですから、おそらく枚数も少なく、誰かに随行していたのだと思います。
  後者の頒布による「雲崗石窟」については、早稲田大学助教授の田辺泰の「雲崗石窟」という文章もついています。關野貞やシャバンヌらとの窟名の相違の一覧表がつけられています。その末尾に「余は昭和五年七月伊藤博士と共に雲崗大石窟に至り、心ゆくばかり北魏の大芸術を讃仰したのであつた。実に当時を回顧すれば夢の如くである。帰来未だ何等発表の機を得ないが、茲に友人山本明君の写真集編纂さるるあり、乞はるるままに一文を草したのである。」とあります。
  以上のような事情がありますので、一つの想像ですが、昭和13年頒布の『龍門石窟』は、もともと關野貞に序文を依頼するはずのところ、昭和10年の關野死去でそれがかなわなくなったのではないかと思われます。