中国の亀趺

                   参照資料:代表的なものをご紹介すれば、
                          関野貞『支那碑碣形式ノ変遷』(座右宝刊行会、1935年)
                          関野貞『支那の建築と芸術』(岩波書店、1938年)
                          その他の資料について、平勢郎『亀の碑と正統−−領域国家の正統主張と複数の東アジア冊封体制観−−』(白帝社、2004年)にご紹介したところがあります。

  中国の亀趺碑は、後漢時代に始まりました。
  これは、いわゆる石碑がこの時代に始まることと関係があります。それまでにも石碑の先祖はありますが、形態が違っていました。有名なところでは、始皇帝が泰山などに建てた石刻があります。さらに遡れば戦国時代の秦国で造られた石鼓(刻されたのが石鼓文)があります。
  後漢の豪族と称される人々が大きな墓を造り、石碑を建てました。その石碑には、青龍白虎を二つあしらった台石つまり趺石(青龍白虎趺)のものもあり、亀趺のものも造られています。
  ところが、魏の文帝が薄葬令を出し、地上の目印を禁止した結果、亀趺碑は地上から消滅します。しかし、こうなると、それまで小型だった墓誌、つまり墓に副葬されていた墓誌が、巨大化してきます。そうした墓誌の中に亀をかたどったものがあります。このころの亀は「霊亀」と呼ばれていたことが墓誌銘からわかります。
  南北朝時代になると、薄葬令の効力が薄れ、ふたたび地上に大きな墓が造られるようになります。大型墓が一般化する過程で、皇帝を頂点とする制度的しばりが整備されていきます。
  その結果、隋や唐の制度として5品以上に亀趺碑を許すという規定ができあがります。5品以上というのは、いわゆる貴族身分を意味しています。
  宋代になると、亀趺碑の亀は「贔屓」(ひいき)だという伝説ができあがります。贔屓は龍の子の一つで、龍には九つの子があり、その一つが贔屓だするものです。この伝説と、亀趺碑の建て方との間に、一つの相関関係があります。
  皇帝には亀趺碑を建てず、高位高官のものにのみ亀趺碑をゆるす(5品以上に許す)という規定は、皇帝を親としての龍、高位高官の者を子としての贔屓に見立てるものでしょう。皇帝になったものが祖先を追尊して皇帝と称した場合に、亀趺碑が建てられている場合もありますが、基本的に亀趺碑は皇帝陵には建てていません。最初は上記のように「霊亀」として始まった亀趺の亀ですが、皇帝に建てない、ということが制度として定まった後に、それをもとにして「贔屓」の伝説が生まれたということでしょう。
  ところが、この建て方が、明代になって変化します。代々の皇帝には、亀趺碑を建て、特別の皇帝にはそれを建てないという形ができあがるようです。特別の皇帝とは永楽帝です。この想定については、実は洪武帝の陵に建てられた亀趺碑(いつ誰によって建てられたか)の調査が必要なのですが、まだ私自身は行っていません。
  多少不確かなところがありますが、今のところ、特別な皇帝が親で、他は子供扱い、ということかと考えています。
  子供扱いといっても、皇帝は特別です。ですから、皇帝陵の亀趺碑には、文字は刻されていません。無字碑といいます。評価できないほど偉大だという意味です。
  特別の皇帝、永楽帝の陵墓には、清朝になって、龍趺が建てられました。その龍趺ですが、無字碑ではなく、漢字と満州文字で評価の文章が刻されています。
  この明朝の永楽帝以来の陵墓の亀趺碑から、一部をご紹介しておきましょう。永楽帝の龍趺碑といっしょにご覧ください。
   中国 明の十三陵の亀趺
  中国の亀趺碑については、全国的なものは戦前の関野貞らの調査があるだけで、わからないところが多々あります。科挙官僚を輩出した地主層がどんな墓を造り、どんな神道(参道)をつくり、どんな石碑を建てていたかは、特に興味深いものがあります。