日本の亀趺
墓前碑の亀趺ということでは、日本の亀趺は、江戸時代に始まりました。これは、江戸時代になって、大型墓葬が整備されたことと関係があります。大型墓葬の時代であった古墳時代の終焉とともに、大型の墓葬は造られなくなったわけですが、それが江戸時代に復活したことになります。その復活した大型墓葬の一部として、亀趺碑が建てられています。
「墓前碑の」とことわり書きしたのは、そうではない亀趺があるからです。密教美術の中に醍醐寺本十天形像(『大正大蔵経図版編』所載。9世紀末以前)があり、水天が亀にのる図が描かれています。その後、律宗の唐招提寺の金亀舎利塔が造られ(平安末)、その舎利塔は亀趺が支えています。
朝鮮半島では、新羅後期から高麗時代にかけて、石碑の台石としての亀趺の形が変わりました。首のつきかたが異様になったのです。哺乳類の首と口と背骨の関係について「獣首」(けものくび)、爬虫類の首と口と背骨の関係について「亀首」(かめくび)という表現を使うことにすれば、新羅後期から高麗時代にかけては獣首であり、その前は亀首、その後も亀首、という特徴があります。
中国は一貫して亀首のようです。
日本では、朝鮮半島の変化の影響が見られます。
醍醐寺本十天形像(9世紀末以前)の大亀は亀首です。
唐招提寺の金亀舎利塔(平安末)は亀首です。
和歌山龍光院の金亀舎利塔(1460年銘)は獣首です。
江戸時代になりますが、茨城県坂東市(旧猿島郡猿島町)の万蔵院(真言宗)に石造舎利塔(1681年銘)があり、それは獣首です。
時期に着目してください。朝鮮半島でとっくになくなった獣首をずっと造り続けています。
朝鮮半島で獣首が流行するのは、仏教が盛んになったことと関係がありそうです。日本の舎利塔に獣首が見られるのも、それで説明できます。
その朝鮮半島で亀首がなくなるのは、元寇以後の中国との外交関係が関わりそうです。儒教の影響が強まります。
こうした状況がある中で、江戸時代の大型墓葬が営まれることになりました。
日本の大名がきそって大型墓葬を営みましたが、ここで、とても日本的な動きがありました。大名たちは、それぞれの墓が何らかの独自性をもつようにしくんだのです。
墓は、次の要素からなっています。
・墓に墳丘を造るかどうか
・墳丘の形をどうするか。円墳にするか、方墳にするか、他の形にするか。
・墓の上に墓石を置くかどうか。置くとしたら、どんな形のものを置くか。鎮め石というものが置かれた場合もある。
・墓前碑を置くかどうか。置くとしたら、どんな形のものを置くか。
・墓を造るに当たり、仏式にするか、儒式(と称するやり方があります)にするか、神式にするか。それぞれ、どんな形の墓として具体化するか。
・それぞれの形式は多様で、例えば墓石は五輪塔・宝篋印塔・無縫塔のどれにするか。
・灯籠を置くかどうか。置くとすれば、どこに何個どのように置くか。
以上のようにまとめてみると、いくら多くを数えた江戸時代の大名でも、注意して造れば独自のものが一つや二つはできることがおわかりになるでしょうか。
実際に私が調査した範囲内で、ということではありますが、皆独自のものをもっていました。
それについては、おそらく、ということですが、江戸等において情報のやりとりがあったのではないかと思われます。国もとの墓を参観する何らかの機会もあったのではないでしょうか。嫁とりや婿とり(いり)もありましたから、情報は意外に豊富だったように思われますが、いかがでしょうか。
亀趺碑も、そうした独自性表現の一つとして説明することができます。
亀趺碑が、中国に淵源をもつことからわかりますように、儒式墓葬を具体化する中で採用されたものがあります。
江戸時代は、キリスト教が禁じられ仏教徒になるのが当然の時代でしたが、上記のように、亀趺は舎利塔の意匠として造り続けられてきた経緯があります。また、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、高麗時代の寺院をおとずれ、当時の異様な風貌をもつ亀趺をたくさん目にしたことが想像できます。以上の理由からか、江戸時代の亀趺には獣首のものが少なからず見られます。
台湾の鄭氏が滅ぼされた際には、明人が亡命してきました。彼らは中国直輸入の情報をもたらし、それが儒式墓葬に影響を与えています。また、朝鮮李朝はすでに儒式墓葬の歴史を営んで久しいものがありました。それを目にする機会があった、ということになります。以上の理由からか、江戸時代の亀趺には、亀首のものも少なからず見られます。
・中国は一貫して亀首
・朝鮮半島は、新羅後期から高麗時代にかけてが獣首で、その前後の時期は亀首
・日本は、最初が亀首で獣首に変わり(舎利塔)、江戸時代には獣首と亀首が混在していた(墓前碑など。舎利塔もある)
以上のようにまとめることができます。
大名が問題にされますように、身分規定性のつよいものとして建てられました。
墓葬の中で亀趺碑が建てられる場合、
・墳丘や墓石の前に建てられる
・墳丘や墓石がやや小高いところに造られ、そこから参道(中国語や韓国語では神道 spirit road しんどう−−「しんとう」ではありません)を降りたところに建てられる
・墓石そのものとして建てられる
という三つの場合があるようです。確認できたところでは、ということです。中国や朝鮮半島では、上記の2番目が普通の建て方でした。
なにも問題にされずに堂々と建てているのは水戸徳川家ぐらいで、他の大名は、造営責任者が脱藩したり(会津松平家)、仏式を融合させたり、とさまざまな苦労をしているようです。
中国の唐代の規定として五品以上(いわゆる貴族身分)に亀趺碑をゆるすというものがあります。後になって明代に三品以上が議論され、結局五品以上として落ち着きました。
数字がひとり歩きし、日本では武家官位や祖先の律令官位が問題にされたようです。三品以上に入るのは徳川御三家だけで、他は四品か五品に落ち着いています。したがって、大名の気遣いの様子を見ていると、明代に議論された三品という規定の「三」をずいぶんと気にしたことがうかがわれます。私は、おとりつぶしのネタにされるのをおそれたためかと考えていますが、いかがでしょうか。
天皇と将軍の関係を国際関係においてどう説明するか、ということが、話題になります。将軍を頂点とする武家政権としては、本来ぼやかしておきたいこの話題を、亀趺碑は明確に示してしまうところがあって、それが上記の気遣いに反映されているのでは、と考えていますが、いかがでしょうか。
中国で、神格の顕彰碑が建てられているのを継承し、日本でも独自の顕彰碑が建てられています。柿本人麿や菅原道実、南朝功臣(楠正成など)、篤志家の僧侶などがあります。孔子を顕彰した碑もありますが、建てたのは公ではなく私人であったりしています。忠烈の顕彰碑もあります。
参考:平勢郎『亀の碑と正統−−領域国家の正統主張と複数の東アジア冊封体制観−−』(白帝社、2004年)
儒葬については近藤啓吾『儒葬と神葬』(国書刊行会、1990年)などを参照されるとよろしいかと思います。
以下に平勢撮影の亀趺の写真を一部ご紹介します。
→ 日本の亀趺一瞥
調査に当たって、ご協力たまわった県や市町村の教育委員会の方々、亀趺碑を保管されている社寺や個人の方々に、あらためて感謝申し上げます。