毛利家奇数代藩主の墓(三代以後)
山口毛利家の墓地は、二地に分けられています。初代と偶数代藩主の墓は、萩市内の大照院にあります。また三代以後の藩主の墓は同市内の東光寺にあります。
こうした分け方は、中国の儒式墓葬の形式を取り入れたものです。昭穆制といものがあり、これは宗廟における太祖以下代々の配置を述べたものです。太祖の廟を中央に造り、二代・四代・六代・・・・という偶数代は太祖廟を背にして左側に廟を造り、三代・五代・七代・・・・という奇数代は同じく右側に廟を造ります。偶数代を昭といい、奇数代を穆といいます。廟には木主(位牌)を安置します。周代の制度とされますが、実際は戦国時代以後に整備され今議論される形になったものです。
以上の廟制を墓地に表現したのが山口毛利家だということになります。太祖と昭を大照院に、また穆を東光寺に埋葬したということです。
大照院の墓石は巨大な五輪塔で、墓前碑の趺石は亀趺ではありません。
東光寺の墓石は笠つきの角柱形で、墓前碑が亀趺碑になっています。
東光寺の山門をくぐり、本堂の裏手にすすみ、参道をすこし行くと広く整地された場所に出ます。その奥に代々の昭の藩主の墓石が並び、その前に亀趺碑が建てられ、その前におびただしい数の灯籠が建てられ参道が造られています。墓石は、藩主と正妻のものが並んで建てられています。五代世子の墓石が亀趺碑となっており、同じ敷地内に造られています。
菩提寺の裏に墓地がある、ということですから仏式ですが、亀趺碑や昭穆制など加味された儒式も目立つものになっています。
亀趺は亀首・獣首いずれもあります。
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