鳥取池田家墓地
鳥取市の旧市街の郊外、旧岩美郡に属した国府町に、鳥取池田家の墓地があります。初代池田光政以来、歴代の墓が造られています。
墓域の近くまで車で行けます。
墓域は門をくぐってまっすぐの参道と、その参道の途中で左に折れてまっすぐのびた参道とがあります。その左にのびた参道の行き当たった場所に初代光仲の墓石があります。
代々の墓石は位牌形に造られており、その墓石の趺石が亀趺になっています。碑身の正面(碑陽)に「興禅院殿因伯刺史俊翁義剛大居子」(初代)などの法名、後ろの面(碑陰)に「故因伯両州城主兼相州刺史羽林次将松平仲公」などの生前の官名・氏名(俗名)が書かれています。初代光仲だけは、長文の碑文が刻されています。
鳥取藩は因幡・伯耆二国を所領としていました。それを「因伯両州城主」と表現しています。州はもともと広大な中国を分割統治するため設けられた監察区の名称で、その後行政区となって細分され、その小さくなった「州」が後代まで残っています。小さくなった州の上層にはあらたな広い行政区や監察区が設けられています。州の長官を「刺史」と称していました。正面の「因伯刺史」は「因幡伯耆二国城主」であったことを中国風に表現しなおして法名に使ったものです。碑陰の「相州刺史」はこれと別で、光仲がもらっていた名目上の官位をいいます。光仲は「相模の守」でした。
鳥取池田家は、岡山池田家と姻戚関係にあり、戦国大名池田輝政の嫡孫池田光政が鳥取城主、輝政の二男忠継の弟忠雄の子光仲が岡山城主となっていたのを、藩主を交換して光政が岡山城主、光仲が鳥取城主となっています。
参道に沿って灯籠が建てられています。墓地の灯籠の建て方は、藩ごとに違っています。
墓所は菩提寺とは離れたところにあり、仏式ですが、随所に儒式を加味しています。亀趺も儒式の一つになります。
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