土津霊神神社・会津松平家墓地

  会津松平家初代保科正之の墓は、猪苗代湖のほとりに造られています。ゆるやかな傾斜を登ったところに墳丘が造られ、そこから参道がのび、猪苗代湖に面した場所にいたります。その場所は神社になっていて、祭神は土津(はにつ)霊神つまり保科正之です。
  神社の下まで、車で行けます。
  参道を降りきったところに亀趺碑が建てられています。亀趺の場所から墳丘にのびた参道の中程に、泉があります。言い伝えでは、亀趺の亀は最初は南の猪苗代湖の方を向いていた。それが原因してか夜な夜な猪苗代湖の水を飲みにいった。それを心配した者たちが亀の方向を変え、北の磐梯山の方(つまり墳丘の方)に向け直すと、亀は動かなくなったということです。
  社殿は戊申戦争で焼失し、その後再建されたものです。創建時のものとして残されたのは、亀趺碑だけです。
  墓の造営に当たっては、国もとの侍たちと、江戸にいた二代藩主の間で、悶着があったようです。幕府の目を気にして墓作りに異をとなえる二代藩主の周囲と、積極的に促進しようとする国もととが、それぞれの主張をぶつけあっています。結果的には、墓の造営責任者が脱藩し、勝手に墓を造ったという形をつくりました。
  墓が分を越えているというのが一つの理由ですが、下にも述べるように二代藩主が仏式に変更した点をみても、その墓が「儒葬」で建てられたことが、問題だったようです。「儒葬」だということだけでは、さほど問題にならないでしょうが、亀趺碑は品階規定を具体的形にしてしまいます。中国皇帝との間の形を議論せざるを得なくなるだけでなく、国際的に天皇と将軍をどう位置づけるかが議論されてしまいます。それが、幕府のいらだちをさそわないか、藩として憂えているということのようですが、どう思われますか。
  その亀趺碑ですが、高さ五メートルにもおよぶ日本最大の亀趺碑になっています。碑銘を作文したのは山崎闇齋で、闇齋は朝鮮の朱子学者李退渓の影響を受け、それまでの神道を集大成し理学神道を發展させたことで名高い学者です(岡田武彦『山崎闇齋』明徳出版社、1975年、などをご参照ください)。神道(しんとう)にかかわる人が神道(しんどう、参道)の碑の碑文を書いた、という少々ややこしい言い方になります。







  碑文には、保科正之が「皇帝に拝謁した」ことを述べる記載もあります。これは、正之が天皇に拝謁し、従三位に叙せられた時のことを説明したくだりです。三位という位は、幕府の権威が定まるにつれ御三家のみにゆるされるものとなった高位です。それゆえ、正之はその位を辞退しています。ここでも、官位が問題になっています。天皇を「皇帝」と表現しているのも、一つの認識を示しています。この表現があれば、中国皇帝との関係は示されなくなります。
  二代正経以後は、会津若松市内に墓域を構えました。初代の墓づくりで反対の立場にあった正経は、儒式をやめて仏式で墓石を造っています。
  しかし、三代正容以後は、儒式にもどして、以後それを継承しました。会津にある墓域は、広大な墳丘域を小高く造ってその中に歴代の複数の藩主の墳丘を造り、墳丘域をおりた場所を整地し、それぞれの墳丘の前に初代と似た亀趺碑を建てています。亀趺はすべて墳丘の方を向いています。
  初代を含め、墳丘の上には八角柱状の「鎮め石」を墳頂に置いています。
  当地の儒式の墓葬は、神式とされます。祭神は代々の藩主です。「土津霊神」の「土津」は「はにつ」と読みます。代々の藩主の神としての名も、同種の訓読みがあります。