木星と太歳

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天文関係の知識

  中国古代の諸問題を検討していく上で、天文関係の知識が役立つことがあります。天文とはいいながら、天文の専門家からすれば、ごく初歩的な知識になるのだと思います。しかし、日常そういう学問とは縁遠い研究を進めている立場からしますと、そうも言っていられないところがあります。専門家には初歩的な知識でも、専門外にとっては、意外な利用法が発見されたりします。
  逆に、天文学の専門家にお聞きするところでは、中国古代の史料群は、まるで密林のように見えるようです。ですから、われわれとしては、自分に都合のよい材料だけを提示して部分的な議論を引き出すのではなく、利用できるものはすべて提示して、専門家の意見を聞く必要があります。たとえば、暦を議論するのであれば、その材料をすべて並べてみせるとかの方策が必要です(トータルとして見た場合には、矛盾だらけの方法でも、部分的に見れば成り立ってしまう場合が結構あります)。


天を外側から見る

  木星は惑星の一つです。これに関する材料もあちこちにあります。幸いに先行研究(新城新造『東洋天文学史研究』弘文堂、1928年など)がある時期までの材料を網羅的に集めてくれています。これに新出土の材料を加味し、あとは注意して漏れた材料がないかを探すということになります。
  木星の天球上の位置(どの星の近くにあるか)は、古代の人々が注目して論じたところです。『左伝』にも少なからずその記載があります。『史記』や『漢書』にもあります。以下、この木星に関して簡単に説明し、漢の武帝が史上初めて採用した「年号」である「太初元年」(それ以前にも年号がありますが、『史記』孝武本紀の在位年の書き方からしますと、遡ってつけられたようです)にまつわる歴史の一端をかいま見てみることにしましょう。
  占星術で使う占い盤は、基本形があります。四角の中に円があるというものです。四角は地を意味し、円は天を意味します。地には十二の方位が配当され、天にも十二の方位が配当されます。地を上から見下ろし、それと対比させる関係上、天もそれを外側から見下ろしたものになっています(天の方位と地の方位をクリック)。
  つまり、われわれが見上げる天をひっくりかえしたものが表現されるということです。
  天にも十二方位が配当されると言いましたが、実際には、天は刻一刻と等速で(とわれわれには見えます)ゆっくり回転しています(とわれわれには見えます。実際は地球が自転しているわけですが)。ですから、天に方位を配当するというのは、天球を極の周りに十二に分割することを意味します。天と地を比較するためには、天の回転をとめる必要があります。実際にはとめられないわけですが、占い盤をつかえば、天の回転をとめて地と比較することができます。
  われわれが見上げる天が回転しながら、地の真東と真西を通過してできる線は、地球の赤道が天に投影されたものになります。その天の赤道の近くに、わりと目立つ星座があります。戦国時代前期には、それが二十八個数えられていたことがわかっています。月は、天の赤道近くをすこしづつずれていきます。そのずれ方はといいますと、約二十八日で一週するようにずれていきます。ですから、二十八の星座が数えられたというのは、毎晩の月の位置を知る目安として、それらの星座が注目されたのだろうと考えられます。
  星座を中国語で星宿と言います。角宿、房宿などと表現します。角宿・亢宿が西洋の乙女座に相当し、房宿・心宿・尾宿がサソリ座に相当します。


木星と天

  月ほど早くずれていくわけではありませんが、やはり赤道近くをずれていくのが惑星です。ずれない(とわれわれには見える)星が恒星であり、ずれていく星が惑星になります。木星は惑星の一つで、どんなずれ方をするかといいますと、占い盤よろしく天をみおろした場合、左回りにずれていきます。ときどき逆行しますが、基本は左回りです。天を一週するのに約十二年かかります。
  十二年ですから、天を十二に分割した一つずつを毎年移動していくという勘定になります。天球上の位置を知れば、年(歳)がわかる、ということで、木星を歳星とも言います。
  ところが、すでに書きましたように、天をみおろした場合、木星は左回りにずれていきます。これに対し、天に配当された十二方位は、地と比較する必要から右回りにならんでいます。したがって、木星は、十二方位を逆にまわっていくという話になります。
  さて、天に線を入れて十二に分割したわけですが、どういう基準で線をいれたのかと言いますと、丑の中央に冬至点(冬至に太陽がいるところ)、反対側の未の中央に夏至点(夏至に太陽がいるところ)が重なるように星座を配当しました。これはあくまで天の方位の話です。
  地の方位はと言いますと、冬至の太陽は辰の方位から出てきます。冬至のころは、夜明け前にサソリ座などが辰の方位に見えています。ですから、天に方位を配当する前から、辰方位は注目されていました。
  それで、天の方位を決めた後も、辰の方位から星座を説明しています。冬至点が丑の中央にくるように星座を配当すると、辰の方位には、角宿・亢宿(乙女座)・氐宿(天秤座)が、また左となりの卯の方位には、房宿・心宿・尾宿(サソリ座)が配当されます。
  冬至点や夏至点を基準にして十二方位を等間隔で定めても、実際に注目された二十八宿は、等間隔で並んでいるわけではありません。それらをどう方位配当するかは、星宿のどの星に着目するかによっても違ってきます。
  木星は、これらの星座の間をすこしずつずれていって、約十二年でもとにもどってくるわけですが、そのずれる方向は左回りだったというわけです。


太歳−−木星の影の惑星

  十二方位には十二支を配当しています。十二支は右周りに配当しますから、木星は逆順で移動するという話になります。これはよろしくない、ということで、前3世紀になりますと、木星の影の惑星が考案されました。あくまで影の惑星であり、実在はしないのですが、この影の惑星は、木星と同じ速度で右回りにずれていくことにしました。この影の惑星を太歳と言います。
  木星が左回り、太歳が右回りということですから、どこかで交会することになります。その交会する点を天の方位でいう丑の中央と未の中央、つまり冬至点と夏至点にさだめています。
  木星の位置は、毎年冬至にどの方位にあるかを問題にします。木星のずれ方は等速ではありません(太陽の惑星である地球と木星の位置による)。同じ方位に二年にまたがっていすわるというような説明もでてくることになります。
  木星は、約12年で1周するわけですが、正確には12年ちょうどではありません。約11.86年で1周します。12年1周天ということであれば、7周するのに84年かかる勘定ですが、実際には、83年で1周してしまいます。12年で1周天だと信じていた人は、83年たったところで、1年分ずれてしまったと認識することになります。
  木星は、冬至における位置を判断しますが、このとき丑の方位にあることの確認が重要になります。この基準でいきますと、木星紀年が前4世紀半ばすぎにできあがった後、前270年、前187年、前104年に、ぞれぞれ83年ごとの確認、つまり1年ずれてしまったことの確認をすることになります。12年1周天だとすれば寅の方位に木星がくることになるのを、丑にある、と判断します。
  前187年は呂后の元年、前104年は太初元年になります。


太初元年は特別

  太初元年ですが、それまでのやり方、つまり補正しないままであれば、木星は寅にくる年です。木星が寅であれば、太歳は子ということになります。丑の中央が交会する点だからです。
  この年、春の正月の前にある冬至の日が朔日(ついたち)となり、なおかつ甲子の日になることが議論されました。それまで使っていた暦では冬至は癸亥の日になるはずでした。計算上そうなるという意味です。その計算というのは、戦国時代の前4世紀半ばに作り出された方法によるものです。1日ずらすと甲子になることがわかった、という話です。そうなりますと、いろんな理由をつけて、冬至は甲子の朔日になるという説明をつけていきます。結果、冬至は甲子の朔日だとされます。
  冬至の木星の位置は、日の出前と日の入り後の星座の位置から割り出されていますが、その冬至の日の日の出前(旦)が太陽と月が重なる時刻だとされました。ここに、「甲子朔旦冬至」という希有なる、そしてめでたきことこの上ない日取りが出現しました。
  そうなりますと、木星や太歳にも、操作の手を加えたい、ということになります。せっかくのめでたい日取りが得られる年は、周正(周の正月とされたもの。冬至を含む月)が配当される地の方位の子、もしくは夏正(夏の正月とされたもの。冬至月の翌々月)が配当される地の方位の寅、いずれかをからめられれば、言うことなしです。戦国時代の諸国家の王と同じく、漢の皇帝も周の権威を継承することを議論し、夏の制度を復興することを論じていたからです。
  で、上述のように、それまでのやり方なら寅の方位に木星がくることになっていたのに、こともあろうに肝腎の前104年は、補正によって丑に木星がある年とされてしまうことになったわけです。


本音は寅にしたい−−「縮」「贏」の議論

  実際は、誰の目にも明らかなこととして、木星の位置はずれているのです。それを言いくるめることはできません。そこで、本来の木星位置は寅なのだが、いまは丑にある、という説明をつけました。
  強引な説明です。その批判をかわすために、そもそも木星は位置がずれるものであるとします。十二支の方位順にしたがって言えば、贏(すすむ)の場合もあり、縮(不足する。後れる)の場合も出てくるとして、観測された木星の位置は、本来の位置からいえば「縮」の位置にあると説明したわけです。この説明、贏・縮という漢字の意味から十二支の方位順に合わせて述べています。木星は十二支の方位順を逆にずれていきますから、木星の立場で言えば、縮が「すすむ」、贏が「遅れる」状態を言うことになります。
  木星・太歳の交会と「縮」・「贏」をクリック
  本来の位置でない「縮」の位置でもって、太歳の位置を決めるのではなく、本来の位置で決めるべきだということになります。実際補正された位置である丑は「縮」とされ、本来は「寅」だったとされました。結果として、この本来の木星位置に対応する太歳の位置は、「子」とされました。めでたしめでたしです。
  前104年は、かくして太歳が子、木星が寅(本来の位置)であることが冬至(正月前の)に確認された年であって、かつその冬至が甲子朔になるという年になったわけです。これが、武帝の太初元年になります。
  武帝は、この年をもって、計算定数を改めた新しい暦を始めます。それまでは計算定数だけでなく、月と年初との関係も違っていました。それまでは、冬の10月から始めて9月で終わるという秦国以来の暦を用いていましたが、この年をもって、正月から始めて12月で終わることにしました。当然の方法にもどしたということです。戦国時代に、諸国家の正統抗争の結果として生まれたのが秦国の10月を第一月とする暦であり、抗争する国家が消滅した後の漢帝国で、計算定数を改め、本来の月の数え方を復活させたというわけです。


従来の説明の誤り

  なお従来は、この太初元年にからんだ木星について、つぎのように説明していました。
  武帝改暦の後について、太歳と木星の位置を示す史料から、木星と太歳の交会は子丑の間でおこると解釈しました。太歳の位置を示す史料、木星の位置を示す史料、いずれも『漢書』天文志です。木星の位置は、実際のもので、「縮」とされています。
  また、武帝改暦前については、木星の位置を示す史料として『石氏星経』、太歳の位置を示す史料として『漢書』天文志を選び、木星と太歳の交会は丑寅の間でおこると考えました(木星・太歳の交会と「縮」・「贏」(従来)をクリック)。
  しかし、この説明では、どうして交会点が新しく子丑の間になるのか、どうして交会点がそれまで丑寅の間にあったのかの理由がわかりません。丑の中央で交会するということで一貫していたということであれば、冬至点で交会するということで、納得できます。
  また、どうして「縮」(遅れる)とされ、またどうして「贏」(すすむ)とされるのか、問題になる用語の由来がよくわからなくなります。「縮」と「贏」の間の方位が問題なのだ、だから「遅れる」と「すすむ」が問題になるのだと考えれば、納得のいく話です。
  どうして、太歳は武帝時期のものだけが問題になるのか、そして、それをもって従来はどうして交会点をわりだしたのかの理由もわかりません。
  従来の説は、何が問題だったのでしょうか。

    ③前270〜188年の太歳位置   同じく木星位置
    ②前187〜105年の太歳位置   同じく木星位置
    ①前104〜22年の太歳位置    同じく木星位置

  前104年から始まる新しい暦では、①の木星位置と太歳位置が問題にされ、軸線の関係から木星の縮・贏が問題にされました。ですから、本来であれば、前104年の制度改正前については、②の木星位置と太歳位置を問題にする必要がありました。ところが、従来の説明が依拠した木星位置と太歳位置には、ちぐはぐな対比があったのです。改正後は①の太歳位置と木星位置が対比されているのに、改正前については、①の太歳位置(②の太歳位置でもある)と③の木星位置が対比されています。このちぐはぐさが、結論を誤らせてしまったのです。


誤が見破れなかった理由

  では、どうして誤が見破れなかったのでしょうか。これは、武帝時代の制度改正を紹介する史料が『漢書』だったことに起因します。
  やや詳しく述べれば、武帝の時期を語る材料が武帝時代の同時史料ではなかったことが問題でした。武帝の後、漢末には王莽が権力を握ります。この王莽のときに劉歆という学者を使って、みずからの正統を証明するための議論を盛んに進めています。王莽が正統なのですから、武帝は過去の人物として、利用される存在にすぎなくなります。王莽にとってみれば、祖先ではない武帝をほめすぎては危険です。ほめすぎれば、劉氏にかわって皇帝になったことの説明が難しくなります。
  この王莽を滅ぼした後にできたのが後漢王朝です。最初の皇帝は光武帝でした。この王朝にとって、武帝は先祖ではありますが、これも褒めすぎるわけにはいきません。王莽の簒奪をもたらした前漢王朝を多少はくさしておき、その簒奪者を滅ぼしてできあがった後漢王朝を至上に位置づけておく必要があります。このため、後漢王朝のときにできた『漢書』では、武帝は褒められるとともに、多少くさされる存在になっています。
  つまり、前漢武帝の時の制度は、王莽で封印され、さらに『漢書』でも、それが元にもどしてはもらえなかった点があることを、考えておく必要があります。


「縮」「贏」は、武帝、王莽、『漢書』それぞれで説明が異なる

  まず木星・太歳の超辰と「縮」・「贏」をクリックしてみて下さい。
  すでにご説明したとおり、太初の時の太歳位置を木星位置(「縮」とされる位置)、そして太初の時の太歳位置と過去の木星位置(「贏」とされる位置)を比較しています。
  次に『漢書』です。『漢書』ができた後漢の時代までに王莽時期があり、そこで劉歆が木星位置に関する独自の説を出しています。『漢書』には、この説が継承されています(『漢書』説の超辰と「縮」・「贏」をクリック)。
  劉歆説は、『左伝』の記載される木星位置と王莽時期の木星位置をいずれも満足するものとして提示されたものです。そのため、本来の木星位置でない『左伝』の木星位置を、真なるものとして議論をくみあげています。その結果、木星が超辰する(ずれの集積が1方位分になるので、その1方位をとばして調整する)周期を144年としまた。観測結果からこの数値を得たものではありません。144は12の12倍になっています。12の半分である6は地の数とされ、とてもめでたいものです。
  この『漢書』説の超辰と「縮」・「贏」を見ると、木星位置が「贏」だとされる時期は、孔子時期や「獲麟」の記事(『春秋』にある麒麟を獲た記事。『公羊伝』は王者の出現を予言したという)を含むことはわかりますが、王莽時期の説明としては、何を意図しているのかがよくわかりません。
  一方、『史記』暦書には、「暦術甲子篇」が収められており、そこに、意味不明の太歳位置が示されています。この太歳位置は、丑・未の中央を木星・太歳の交会点だとすれば、実際の木星位置の次の年の木星位置が問題になっていることがわかります。この1年ずれた木星位置は、それぞれの年の11月にやってくる冬至(西暦なら12月の下旬ですが)のころの木星位置になっています。通常は、前年末の冬至(この冬至を含む月が周王朝の正月だったと戦国時代以後歴代議論されました)が話題になっているのを、一年後にずらしたものと解釈することができます。
  この「暦術甲子篇」に示された特異な木星位置を念頭において、劉歆の木星に関する位置説を整理しなおしてみますと、劉歆説の超辰と「縮」・「贏」のようになります。
  これだと、当年末冬至の木星位置を使って、王莽時期の木星位置を「縮」として議論することができます。また、従来どおり前年末冬至の木星位置を使って説明すれば、「獲麟」のころの木星位置を「贏」として議論することができます。
  このような議論をしているということは、武帝のころに、すでにこの種の「縮」・「贏」の議論をしていることを意味します(木星・太歳の超辰と「縮」・「贏」をクリック)。
  さらに言えば、王莽の始建国元年、つまり後9年は、年末冬至における木星位置が「未」になります。未の中央は夏至点です。同じく、「獲麟」があった前481年のも、年末冬至における木星位置が「未」になります。
  前漢・後漢を通じて注目されていた記事が、『春秋』哀公の「獲麟」という記事です。すでにご紹介したように、麟(麒麟)が獲られたことは、王者の到来を予言するものだと、『公羊伝』は説明しています。その説明が、この記事に人の目をひきつけさせていたわけです。ですから、木星の位置が、「獲麟」と王莽始建国元年いずれも「未」だというのは、その王者が王莽であることをほのめかすことだと説明できることを意味します。
  王莽時代には、やれ「白い雉がとれた」だの、「甘露が降った」だのというめでたい現象があちこちでおこっていました。正確にいえば、そうだったと報告され、 めでたいことだとされました。そのころの王莽の知恵袋が劉歆です。ですから、劉歆の木星の位置に関する説明は、王莽の正統を予言する役割を担っていたと考えて間違いないでしょう。
  そのことに関連して言えば、想定復元された王莽時期の劉歆説では、武帝のときの太初改暦の特別な位置づけが、封印されています。具体的にどこについて言っているのかと言えば、改暦の前後が連続するように説明される点です。太初元年の前年末冬至が「朔旦甲子」だというのに、このときには、前代以来の木星位置が使われ、すぐに超辰してしまうような説明になっています。そして、こともあろうに、太初元年の前年末冬至が「朔旦甲子」になるというのに、それでなく、年末の木星位置を問題にします。
  この想定復元される説明を、『漢書』は否定し、さらには、光武帝を至上に位置づけた、ということになります。後漢の光武帝を至上に位置づける必要からも、前漢武帝を脇役に仕立て上げますので、王莽時期の武帝改暦に関する方策は、あちこち蹈襲します。その上で、王莽を否定する必要から、木星位置を年末冬至で判断することをやめ、旧来の方法である前年末冬至での判断にもどします。その結果、「縮」の議論は、王莽時代のことではなくなりました。あらためて、武帝時代のことと説明されることとなり、王莽時代を特別に位置づけるための説明は、封印されてしまいました。


『史記』暦書「暦術甲子篇」の謎を解く

  さきに『史記』暦書に収められた「暦術甲子篇」の木星位置をご紹介しておきましたが、この木星位置には謎がありました。そこに示された太歳位置が、『漢書』のものと違っていることが知られていたのですが、どうしてそんな位置になるのか、うまく説明できないままになっていたのです。
  その太歳の記事は、前漢末まで記されています。『史記』ができたのは前漢の半ばです。
  もっとも、前漢末まで記されていると言っても、その事自体は驚くに値しません。武帝改暦のときの超辰から83年以内のことを扱うにすぎません。これは武帝の時代からも計算によって知ることができる内容です。しかし、年号までは予測不可能です。明らかに後の補筆があります。
  ここで問題になる可能性は二つ。

    1:補筆はあったが、それは年号だけのことであり、武帝改暦と同時に、年末冬至で木星位置を判断するようになったのである。これに対し、「縮」と「贏」の議論は、劉歆が採用し、それを『漢書』が収用したもので、武帝時代のものではない。
    2:補筆は年号だけにとどまらず、内容にも及んでいる。武帝のときには、「縮」と「贏」の議論があったのであって、年末冬至で木星位置を判断する方法は、まだなかった。この年末冬至で判断する方法は、劉歆が採用したものである。

  このページでは、2の可能性を念頭において説明してみました。なぜかと言うと、すでに言及したことでもありますが、そうしないと、太初元年の前年末冬至が「甲子朔旦冬至」(朔の状態になる時刻は旦であったと解釈されています)であることへのこだわりと矛盾してくるからです。そして、「暦術甲子篇」という名称ともなじまなくなるからです。皆さんはどうお考えになりますか。
  『史記』「暦術甲子篇」の太歳位置は、当年末冬至において木星位置を判断しようという議論の中で、補入されたものでした。その補入を行った人物は、王莽の知恵袋だった劉歆です。その補入によって、武帝太初元年前年末冬至の「冬至朔旦甲子」の意味が著しく減じられました。本来前年末冬至の木星位置との対照から「子」にあるとされた太歳は、当年末冬至の木星位置との対照から「寅」にあることになり、そしてさらに、すでにご紹介した王莽の正統性を証明するための木星説(「獲麟」も「始建国」元年も、木星はいずれの年にあっても未の夏至点にある。当年末冬至に)も成り立つことになったのです。


劉歆説の木星位置は、遡るほどに実際の天象とずれていく

  このページで盛んに問題にしたのが劉歆説ですが、この劉歆がとなえた木星位置は、天文観測から得られたものではありません。『左伝』に示されたデータをうのみにして利用し、他の諸書に散見するデータを無視したものです。したがって、その意味づけは相当に乱暴なものだということになりますが、劉歆のころは、過去の典籍のどれを採用するかが問題にされていました。中でも注目されたのが、戦国時代から春秋時代に12年1周天で木星位置を遡った『左伝』の記載でした。
  木星が83年で1周天するという事実を無視したものですから、『左伝』の木星位置も、実際のものとは違ってずれた方位を問題にしていました。
  その『左伝』に見える木星位置を真なるものと誤って使ったわけですから、その使った時点で、議論の乱暴さを背負い込んでしまったわけです。
  当時の観測データに関する認識には、この種の限界があったという話でもあります。


太歳は、後漢以後超辰しなくなった

  木星と太歳が冬至点や夏至点で交会するとしておくと、定期的に超辰をくりかえすことになります。ところが、後漢以後は、木星との交会を問題にしなくなりました。木星がいかなる運行をくりかえすかとは別に、太歳は12年で1周点することにしたのです。
  この決定により、太歳は以後、超辰しないことになりました。そのまま現在にいたっています。2004年は申年ですが、この申も、超辰しなくなった太歳の位置を示しています。
  そこで、話を続けますと、先に、従来の説において、『漢書』にみえる対比のちぐはぐさが、どうして気付かれなかったのか、と発問しておきました。
  『漢書』説の超辰と「縮」・「贏」を再度確認してみてください。
  後漢時代に超辰しなくなった太歳位置は、『漢書』の説明によれば、劉歆説により前95年に超辰したままのものです。前漢武帝時代の太歳は、その超辰前のものです。それは戦国時代以来のものになっています。これがくせものでした。
  「贏」とされた『石氏星経』について、学問的には、戦国時期が議論されていましたので、これと『漢書』の超辰前の太歳位置を比較することが、おかしいとは思わなかったわけです。
  太歳位置は『漢書』の説をそのまま受け入れて判断し(『漢書』説の超辰と「縮」・「贏」の太歳位置をを参照)、
  木星位置は『石氏星経』のデータを学問的に検討し判断していた(木星・太歳の超辰と「縮」・「贏」の木星位置を参照)
というわけです。
  従来の誤に気付かなかったのは、武帝時代の制度改正を紹介する史料が『漢書』だったことに起因すると、先に申し上げました。『漢書』は後漢時代の作為の産物です。この認識がないまま、データをそのまま学問的に処理してしまってはいけなかったわけです。

  以上話題にしたことを天文の専門家に知っていただき、その上で、専門知識の提供をお願いする、それが一応の筋なのでしょう。



参考資料:
 平郎『中國古代紀年の研究』(東京大學東洋文化研究所、汲古書院、1996年)
 平郎『左傳の史料批判的研究』(東京大學東洋文化研究所、汲古書院、1998年)